〝所司代の辻子〟と呼ばれていた路地
二条城の北門の真ん前。
竹屋町通に面してその路地はあります。
両側に20軒ほどが立ち並ぶ、その突きあたりでお地蔵さんが、こっちを向いて、表通りを行き交う人を見ています。
近所の人だけでなく、二条城のお堀端をウオーキングする人たちの中にも、この路地の前を通るときは、必ずと言っていいほど奥のお地蔵様に両手を合わせて行きます。
ご多分に漏れず、ここにも何軒かの空き家が放置されていますが、お地蔵様は残る家が大切にお世話をしています。
「ここは昔、〝所司代の辻子〟て言われてたそうですよ」――ご近所の物知りな奥さんが教えてくれました。
1601年(慶長6)、徳川家康が江戸幕府を行政機関とし、西日本を支配するために、その最高権限を有する京都所司代を置いたのが、ちょうど「二条城北之御門前」で、その上屋敷が、この路地がある東藁屋町全域にあったとのこと。
また京友禅の全盛期だった昭和初期後頃までは、東堀川にきれいな水が流れていて、友禅を洗う職人さんらの姿が見られました。そして、そのすぐ脇をチンチン電車が走っていました。
夏の夕暮れにはホタルの飛び交う風景もみられました。聞いているけで、「絵になる風景」が想像できます。
その堀川の支流は、路地の前の竹屋町通りに流れこんできていました。今は暗渠になってトチの並木になっていますが、当時、通りに面した家の戸口や路地入口に小橋が架かっていました。
小さな天理教道場の奥さんが話してくれました。「お堀の傍のこの道も、今は立派な道ですけど、昔は砂利道でね。二条駅からの荷物を運んで行き来する荷馬車がたくさん通って。それが、よう馬糞をこぼして行くんですわ。そやから『かなんかった』て、母がようこぼしてましたわ」と。
↑ すっかり整備され、市民の散策路として生まれ変わりました
友禅や絞りなど、和装の仕事が盛んだったころの名残が路地にありました。まったく人気のない家の前に、絞り染めに使う桶がいくつか転がっていました。
染めを蒸す湯気が立ちのぼり、汗を流して、せっせと働く人がいて、その合間をする抜けて遊びに高じる子どもたちの姿がありました。
かつては、毎日のように雑巾で拭きこまれてただろう格子窓
テントが張られているので、改築工事かな?と思っていたら、テントは次第に大きく広がり、路地の入口も塞いでしまったではありませんか!
竹屋町通の天理教の家や数軒もベニヤ板で覆い隠されてしまっています。
20軒ほどの路地の人たちは、コツ然と姿を消してしまったのです。いったいどこへ行かれたのか...。路地の奥のお地蔵さまはどこへ。
久しぶりに訪ねて「なくなっていた」と言うのではなく、こうして京の町並みなくなっていく様を見るのは、何とも悲しくやり切れない思いです。
この連載「花いちもんめ 路地の暮らしの風景」は、今も残る風景を尋ねるのではなく、ひょっとしたら、消えゆく姿の後追いになるのでしょうか。何ともさみしい気がします。
(と)