草の根の要求かかげ
「フランス橋いらない」と
ヒューマン・チェーン
90年代後半、大企業のリストラ強化、あいつぐ倒産、京都みやこ(伏見区)・南京都(宇治市)の2信金破たんをはじめ、京都経済の落ち込みはいっそう深刻さを増しました。
96年には消費税増税阻止の50万署名運動などの府民運動が高まり、草の根からの運動が大きく広がりました。
99年9月には京都総評のなかに労働相談センターが発足し、未組織労働者を中心に年平均1千件以上の相談が寄せられ、数多くの解決がはかられてきました。
また、「ムダと環境破壊の3点セット」(鴨川にかけようとされた「フランス橋」計画、京都高速道路、京都御苑の第二迎賓館計画)に反対する運動をはじめ、自然と環境を守り、大型開発に反対する運動が府内各地でとりくまれました。鴨川・「フランス橋」計画には、全国の多くの著名人から反対の声が寄せられ、京都市は撤回を表明しました。城陽文化パルク、ガレリア亀岡、南山城村山なみホールをはじめ、豪華な施設建設がすすめられました。住民犠牲をすすめながら、多額の税金をつかう「箱もの」建設に大きな批判が寄せられ、各自治体の選挙でも重要争点となりました。
こうした運動と選挙戦での日本共産党の躍進、議会での論戦があいまって、「オール与党」体制とその妨害を打ち破って、住民要求実現へ大きく前進、新たな画期をつくってきました。知事が「絵にかいた餅」と攻撃した子どもの医療費の無料化は府内各地に広がりました。90年代末から2000年代にかけて、府内各地での住民運動が広がり、96年9月に結成された自治体要求連絡会の運動が継続して取り組まれました。国保料・税の引き下げ、介護保険料の軽減措置、養護学校建設、専科教員配置、老朽校舎の補修、住宅改修助成、中学校給食や35人学級などが各地で実現しました。党議員団と党支部が府内各地で住民の要求実現に取り組みました。とくに多くの支部が住民アンケートに取り組み、従来をこえた多くの回答がよせられ、循環型の活動が党活動の新たな活気をつくりました。
96年京都市長選挙と98年知事選挙
2000年京都市長選挙にあたって水上勉氏から
よせられた井上吉郎候補推薦のメッセージ
96年1月田辺京都市長が辞任して、市長選挙がたたかわれました。この選挙で民主市政の会推薦、政党では日本共産党だけが推す井上吉郎候補が、21万8,487票、得票率48.12%を獲得しました。この選挙結果は、住専への税金投入でゆれる国会にも大きな衝撃をあたえ、「京都ショック」といわれ、国際的にもフランスのル・モンド紙が「衝撃的な前進を果たした」、イギリスのフィナンシャルタイムズ紙が「連立与党、危機一髪」と報じるなど、大きな反響をよびました。
この市長選挙は日本共産党と無党派の人々との共同にこそ、政治を変える力があること、その最大の障害である反共攻撃は打ち破れることを示した点で新たな到達をきりひらいたものとなりました。
この選挙戦のなかで、作家の水上勉氏の京都への熱い思いをこめた訴えは大きな感銘と感動を市民のなかに広げました。
98年4月の知事選挙では、9党が推薦した現職・荒巻知事にたいし、民主府政の会推薦の森川明候補が36万1,864票を獲得、得票率41.4%は民主府政「落城」後の最高でした。京都市内では左京区で森川票が荒巻票を上回ったのをはじめ、あと2万票差に迫る互角のたたかいとなりました。森川候補は、新しい峰をきずいた選挙戦について「峰のむこうに府民が主人公の府政が見えている」と述べました。
幅広い共同がすすみ、各種のシンポは154回、1万8,138人の参加のもとにおこなわれ、112をこえる商店街アピール、女性有権者の2%を占める2万人の女性アピール、2千人をこえる農民アピールをはじめ、各分野のアピール運動も画期をなす広がりとなりました。
党躍進の流れのなかで98年11月、宇治市文化センターで開催された第57回府党会議は、府党会議史上はじめて、その一部をマスコミに公開しました。
与党自治体の誕生と地方選挙での躍進
反共攻撃を打ち破って「市民が主人公」の城陽市政誕生
90年代後半、党と無党派層の共同が広がるなか、97年9月の城陽市長選挙で、日本共産党も参加する「新しい城陽民主市政を築く会」と保守系3団体で構成する「新しい城陽をつくる会」推薦の大西忠候補が5期の現職候補を相手に、当選しました。この選挙戦では、日本共産党をガイコツに描いた法定ビラをはじめ、激しい反共攻撃が展開されましたが、この攻撃を打ち破った勝利でした。日本共産党が与党の野田川町、網野町でも現職町長が再選を果たしました。90年代に誕生した、これらの与党自治体では、住民本位の施策が展開され、新しい地方政治の流れをひろげました。
96年衆議院選挙、98年参議院選挙での躍進に続いてたたかわれた99年いっせい地方選挙で、日本共産党は、府議会で15議席、京都市議会で21議席に躍進し、なかでも府議会の京都市内の議席は、日本共産党13にたいし、自民党12と、日本共産党が自民党をうわまわり、京都市議会議席は史上最高で、自民党との差はあと2議席にまで迫りました。後半戦では5市で28議席、17町村で41議席を獲得、京都の地方議員数は史上最高の180議席になりました。
憲法と地方自治をめぐって
知恩院で宗教者と不破哲三議長が懇談
90年代の反動攻勢のもと、憲法と地方自治への攻撃が強められました。このなかで、憲法と地方自治を擁護し、その今日的意義に光をあてることは特別に重要でした。
91年10月に開催された革新懇・京都平民懇共催のシンポジウムで不破哲三委員長は、現行憲法が「時代遅れ」になっているとの論にたいし、「日本国憲法が世界の歴史のなかで、どういう意味をもっているか」と世界の歴史と社会進歩にはたしている意義を太く解明しました。
また、1997年2月に開催された、憲法・地方自治法施行50周年、蜷川虎三元知事生誕百年を記念した集いで不破委員長は、「日本の政治の歴史のなかで蜷川府政はどういう位置を占めているか」「この20年間、地方政治に何がおこったのか」「どんな大型開発がもちこまれたか」を解明、「1950年、朝鮮戦争前夜に実現した蜷川さんの初勝利は、やがて、1960年代、70年代の革新自治体の大きな波にまで広がりました。いま新しく起こる革新・民主の地方政治の波は、21世紀の国政革新の大きな波に結びつくし、その拓き手になることは間違いない」「来年の知事選挙を大きな節目として、日本の政治を21世紀にむかって開いてゆく大きな仕事に全力をあげて取り組」むことをよびかけました。
宗教者と不破議長との懇談会が2000年6月に聖護院で、2001年3月は知恩院でおこなわれました。これらの懇談会で、不破議長は「現世の問題がこれほど深刻になっている今日、我々が生きている日本社会の問題で忌憚なく話し合い、一致できるところは協力して前向きな日本をつくっていきたい」とよびかけました。