70年知事選挙と革新統一のたたかい―光り輝いた"革新の灯台"
70年代幕あけの歴史的な勝利
1970(昭和45)年4月の京都府知事選は、70年代の幕あけとして、また70年代の日本の進路を示す重大な政治戦としてたたかわれ、党と民主勢力の推す統一候補・蜷川虎三は、14万余票の大差で反動連合を打ち破り、6選勝利をかちとった。69年末の総選挙結果でいえば、自公民3党は、62万2千票(64%)で、共社両党の35万票を約27万票も上まわっており、反動勢力は、革新府政を打倒する絶好の機会として早々から大規模な宣伝を組織した。民主勢力は大いに危機感を燃やして反撃にたちあがり、とくに革新統一の声を強めた。1月20日、綾部市長選で革新統一の羽室清が当選したことは、府民を大きくはげました。8回におよぶ共社両党会談と広範な統一をのぞむ運動の結果、1月31日に、協定が成立し、「明るい民主府政をすすめる会」が発足した。党中央もこの選挙戦を「70年代の政治動向に重大な影響をおよぼす」ものとして、第11回党大会を延期し、全国的に支援を訴えて勝利のために全力をそそいだ。自・公・民の柴田護(前自治省事務次官)陣営が流したビラは、全戸配布で60数種、3千万枚をこえたといわれ、立看板、ラジオ、テレビ、新聞広告などマスコミをつかっての宣伝の量は未曾有のものであったが、「会」も連日、朝、昼、晩と1歩もひけをとらず反撃して、この壮大な歴史的政治戦をかちぬいた。
この選挙戦の重要な教訓は、有権者の過半数を獲得するための積極的な政策宣伝と組織活動において敵より1歩先んずることなしには知事選では勝てないということであり、また、革新統一による広範な勢力を結集した共闘組織の確立と、政党としての日本共産党の役割の発揮、そして強大な党の存在の必要性ということであった。この結果、党と革新統一への信頼は大きく高まった。
知事選挙後、4.28、6.23統一行動では、共・社・地評の3者による共闘が大きく成功し、10月の宇治市長選で統一候補の田川熊雄が当選するなど革新統一の運動が前進した。しかし自民党、反動勢力もまた反撃を強め、岩滝町、峰山町などでは町長を反動に奪われ、社、公、民の反共3党連合の策動も強まった。
反共「社公民」が統一を妨害
1971(昭和46)年2月の京都市長選挙は、富井市長の病気による引退と社会党の参議院選での社公民連合の思惑に、反動陣営の市政奪還を狙う革新分断の策動がからみ複雑に推移したが、わが党と、社会党との79回におよぶ会談のすえ、告示3日前に協定が成立し、「明るい民主市政をすすめる会」が発足した。自民、民社連合の永末英1は「市民党」をよそおい「かば(自民)にのったゴリラ(民社)」といわれたが、革新統一候補・舩橋求巳(前京都市助役)は、これをやぶって当選し、革新市政を守りぬいた。この選挙戦での教訓は、わが党の組織拡大とねばり強い努力によって革新分断を許さず、また対等、平等の共闘組織が各行政区まで確立されるなど全民主勢力の力を十分発揮したことである。
ひきつづき4月にたたかわれたいっせい地方選挙で、党は前進をかちとり、府下45自治体のうち42自治体に119人(11%)の議員をもち、府下第一党となり、府会(12人)、京都市会(18人)、府下4市十町で提案権をもった。また革新統一首長は1府5市十町1村、革新共同首長十町、蜷川民主府政と協力共同する自治体が7町となり、一方、反動勢力におされた首長は3市8町となった。
70年代の初期にたたかわれたこの重要な1連の選挙において、社会党は正しく教訓を学ばず、社公民路線を強めた。71年7月の参議院選で社会党の大橋和孝が事実上「社公民」協力で当選したことを契機にさらに右傾化を強めた。民主府・市政の多くの局面で自・公・民に同調したり、「民主府市政の会」の継続を拒むなど京都の民主運動に多くの困難をもたらした。
71年参議院選で、府党は、京都での全国区得票で社、公を抜いて府下第二党に前進したが、地方区で神谷信之助は23万5千票、得票率27.77%を獲得したものの、「社公民」協力の大橋に敗れた。こうしたなかで11回党大会5中総は「他党派の動向がどうであろうと、独自で2人区でも当選を獲得しうる力量に到達する」ことを京都の党組織に任務づけた。
72年総選挙の躍進と以後の逆流との闘争―革新統一の旗かかげて
党史上初めて1選挙区複数当選
1971(昭和46)年8月、府党は、衆議院京都1区に複数の候補者をたててたたかう画期的な方針を発表した。72年4月の第26回府党会議は、府党が京都の現実政治に指導責任を負う位置にあることを確認し、革新の灯台としての蜷川民主府政の擁護発展のとりくみと、党創立50周年をめざす党勢の拡大運動、総選挙の取り組みの強化を決定した。
党創立50周年記念の拡大運動で目標を達成した府党は、その秋、田中内閣による「工場再配置」の指定に反対する全市的な反対闘争の先頭にたち、谷口代議士は、国会でも政府を鋭く追及した。党の政策は、郷土産業を守り発展させるものとして広く支持され、西陣などの多くの業界のなかで自民党の支配を離れて党に接近する事態も生まれるなど新しい変化がおこった。
12月の総選挙は、このようななかでたたかわれた。府党は有権者名簿をつくり支持拡大をひろげ、全有権者の9%に近い後援会をつくるなど活発な運動を展開して、1区で谷口善太郎6万8千184票で1位当選、梅田勝6万2,414票で3位当選し、自民党を1議席に減らして初の1選挙区複数当選をかちとった。2区で13万6,646票の2位当選を果たした寺前巌票と合わせての26万7,244票、得票率24.57%は、それまでの府党の最高得票数であった。1区での得票率は30%をこえた。
71年の京都市長選挙以後、共闘継続のはたらきかけに対して「共闘すれば共産党にくわれる」と反対した社会党は、2回統一してたたかった実績で、1区で議席を回復し、2区では最高点で当選を果たし、自らその主張が事実に反することを立証した。自民党と露骨な連合を組み、革新の旗を投げ捨てた公明党は、府民のきびしい批判をうけ、1、2区とも現職が落選した。このように、72年の総選挙は、共社両党の議席増大と自公民の敗北という70年知事選の結果を反映したものとなった。
反共反革新の策謀をうちやぶる
反動陣営は、この党の躍進に脅威をおぼえ、同時に70年知事選敗北から彼らなりに教訓をひき出して、革新統一の破壊のために巧妙な策動を展開してきた。72年12月、京都府会で、部落解放同盟の朝田派による反共分裂主義を利用して、自社公民各派によって蜷川知事を攻撃する「非難決議」が強行されたことは、その一つのあらわれであった。
73(昭和48)年早々には、社会党の「京都新報」の号外「大橋和孝版」は、公然と蜷川民主府政への攻撃を大々的に掲載した。こうして京都では反革新・逆流との闘争が重要な課題となった。京都の民主勢力は、3月25日に府立大グラウンドで4万人を結集して民主府政擁護の府民大集会を成功させて逆流とのたたかいを大きく前進させた。
ひきつづく全国的な小選挙区制粉砕のたたかいで、5月15日についに共、社、公、地評の4者共闘を実現させて、円山音楽堂で1万8千人が結集しての大集会を成功させた。この闘争で党は決定的な役割を果たした。
党は、躍進した国会のなかで、「なれあい政治」、「宴会政治」の1掃など議会の民主化をすすめ、国鉄や健保の値上げ反対など国民生活擁護のたたかい、狂乱物価、物かくしの大企業の横暴、危険な軍事同盟の追及できわだった成果をあげた。8月に京都で開催された第19回日本母親大会は3万人が参加して大きく成功した。これらの運動の高揚と党勢拡大運動の前進は、逆流に抗する大きな流れとなった。9月13日には、府委員会がよびかけた知事選での革新統一をめざす懇談会に、224団体、350人が参加し、統一への気運を大きく高めた。10月18日に、「民主府政の会」存続問題検討小委員会は、「会」の継続を確認し、堀江友広代表委員が記者会見して、「社会党はつぎの知事選では共産党、地評とともに革新統一でたたかう」との「成田念書」を公表したことはきわめて重要な決断であった。74年1月には、蜷川7選出馬要請は2,600団体を上まわり、3月11日に、「会」は蜷川知事との協定に調印した。
4月7日投票の知事選では、自民党の策略にのって、統一に背をむけた大橋和孝を4,500票の僅差でやぶり、蜷川7選をかちとった。この勝利は「自民党の新しい反共戦略、自由国民連合戦線の一環」をうちくだく歴史的意義をもつものであった。このとき社会党府本部の有志は、社会党中央の大橋除名、蜷川支持という決定を支持する党員会議を組織して統一の側にたった。公明党は選挙中、事実上大橋を支持した。12月になって新聞は、竹入委員長が大橋から2千万円入り菓子箱を一時受け取った事実を報道して、その反革新性を暴露した。
知事選と同時にたたかわれた府議補選では中京区で五辻英一郎が当選、右京区の渡辺馨は惜敗した。また、参院補選では、藤原ひろ子が立候補して26万1,690票、得票率33.5%を獲得したが惜敗した。
6月8日、党中央委員、衆院議員団長の谷口善太郎が死去した。京都の党創立から今日までの強大な党建設に指導的役割を果たし、プロレタリア作家としてもすぐれた作品を多くのこした谷善をしのび、府党は7月20日、追悼式をおこない、のちに、東大谷に記念碑を建立した。
同年1月には南地区委員会から乙訓地区委員会が分割された。
初の共産党員市長が亀岡に誕生
74年知事選の逆流に勝利した府党は、その後、7月の参院選では、京都地方区で河田賢治を29万5千6百7票で再選させ、全国区の神谷信之助も当選させ、京都市議補選では、東山区で森ます子、伏見区で井ノ口誠2の当選をかちとった。さらに翌年1月、亀岡市長選では、現職の平田1義を破って、小島幸夫が当選、府下で初めての共産党員市長を実現させた。また、2月の京都市長選では、社会党の妨害のため協定が成立しなかったが、反自民の基本姿勢を明らかにした舩橋再選を支持した。4月のいっせい地方選で府党は、府会に13人、京都市会に20人、後半戦の市町会で59人を当選させ、山城町で議席を獲得し、京都府下に空白議会をなくして全府下に150人の議席をもつ第一党となり、府会副議長に初めて浅川亨が就任した。8月の第29回府党会議は、つぎの総選挙では、1区につづき2区でも複数をたてる方針を決定し、「京都民報」は11月から第一週を8頁だてとし、山城版を新設、3版刷を実施した。
1976年1月21日、名誉府委員安井信雄が死去した。安井は、戦後の党再建にいち早く参加し、最初の京都市会選挙以来連続7回当選をしており安井病院長、京都民医連会長として地域の健康とくらしを守るたたかいで大きな役割を果たした。
70年代後半の後退と前進―反共包囲に不屈のたたかい
「灘井問題」の教訓と反共宣伝
田中退陣へ追い込んだ党は、ロッキード疑獄事件でも徹底追及をおこなった。1976(昭和51)年1月、市電存続の直接請求署名は27万人に達した。2月29日に、5者共闘(共、社、公、春闘共闘、消団連)はロッキード疑獄、暗黒政治糾弾京都大集会を組織し、国会での民社党春日1幸による反共攻撃に対しても反撃した。
こうしたなかで2区の予定候補であった灘井5郎の南山城ゴルフ場建設にからむ腐敗が明らかとなり、3月11日、府委員会は灘井を除名した。反動勢力はロッキード事件との相殺をねらい、府会での百条委員会も利用して反共攻撃をおこなった。彼らは謀略的策動によってわが党と革新府政に打撃を与えようとした。しかし、それは灘井個人の腐敗であり、京都府政は歪められることなく、森林法や砂防法に違反する不法工事として告発した。党は反共攻撃にたいして断固たる反撃をおこなった。「灘井問題」の教訓は、資格に欠けるものを候補者にしたこと、灘井の欠陥を長期にあいまいにし、疑惑が表面化してからも迅速、的確に対応できなかったことなどで府委員会の責任は重大であった。
4月16日の第十回府委員会総会は、このような事態についての指導上の責任をただし、きびしく自己批判し、党中央の決定を堅持して、慢心や自己過信を戒め、党内民主主義を保障し、官僚主義の克服につとめて、再びこのような誤りをひきおこさないことを決意した。「灘井問題」は大衆運動にも影響をあたえた。社会党が、共闘拒否の理由につかって、党に「絶縁声明」を出すなどし、4.28以降の統一行動で困難も生まれたが、党と自覚的民主勢力は、安保破棄実行委員会に結集してたたかった。また府党は、第13回臨時党大会を記念して、総選挙必勝めざす党勢拡大運動月間をとりくんだが、7月11日の第30回臨時府党会議では、大会比で党員112%、日刊紙95.3%、日曜版94.7%と、総選挙を目前にして「赤旗」読者の重大な後退をまねいた。
12月5日に、総選挙がおこなわれ、谷口善太郎死去のあとをうけて立候補した藤原ひろ子は5万3,750票で4位当選したが、梅田勝は4万6千142票で敗れ複数議席から後退した。2区では寺前巌が13万6千百3票の最高点で当選した。全体では、前回と比べ、3万千2百49票の減、得票率でも3.5%後退した。同時投票の北区府議補選では梶山耕1が当選した。12月十日の宇治市長選挙では、革新統一候補の島田正夫が無投票で当選した。
この年12月にひらかれた京都総評の第26回定期大会で、平和、原水禁運動の統一に関する13単産修正案が可決されたことは大きな前進であった。1977(昭和52)年の原水禁世界大会の統一をめざして、京都では、清水寺の大西良慶師など17氏のよびかけがおこなわれ、統一世界大会には、約700人の代表が派遣された。
逆流に抗し党の拡大強化めざす
1977(昭和52)年7月の参議院選では、地方区で佐藤昭夫は、23万1,733票、得票率23.2%で当選したが、全国区の加藤進は京都での得票が15万5,000余票で、責任を果たすことができなかった。つづいて、8月7日の久美浜町長選で小谷利一郎が惜敗し、9月25日の島利一市長辞任にともなう城陽市長選では、革新共同の下条1誠が敗れ、ともに革新自治体を失い、府下での重大な後退となった。
府党は、翌78年に迫った府知事選にそなえて9月十日、革新統一めざす各界懇談会をよびかけ、京都会館会議場に2百団体320人が参加した。この懇談会で逆流を克服して革新統一で知事選をたたかうことを確認したが、9月16日、社公民3党は連絡協議会を発足させ、分裂策動を公然化させた。
こうした重大な情勢のなかで、第14回党大会がひらかれ、府党は「日曜版」の月間目標を達成し、11月にもたれた第32回府党会議では、78年知事選必勝とつぎの総選挙で、1区複数、2区必勝に力を集中する方針と態勢を決定し、府委員長に安井真造、府委員長代理に中央派遣の茨木良和幹部会委員が選出された。
78年知事選と各分野の闘争
1978(昭和53)年1月15日、民主府政推進各界連絡会が結成され、4月9日に知事選がおこなわれた。「会」に結集した4,700をこえる団体と広範な府民は、党とともに前京大教授の杉村敏正を推して奮闘したが、社公推薦、民社支持の社会党代議士であり、元副知事であった山田芳治が革新分断の挙にでたため、自民・新自クの推す林田悠紀夫に敗れ、28年の実績をもつ革新の灯台を失った。しかし、杉村は党の総選挙での約23万の得票にたいして43万余票を獲得し、社公民派は51万票が20万票しかとれず惨敗した。つづいて4月23日におこなわれた参院補選で梅田勝は23万8,409票、得票率は国政選挙としては過去最高の34.2%を獲得したが惜敗した。
7月20日、戦前の党歴をもち、戦後の党再建に参加し、その後府副委員長、また2区候補として奮闘してきた病気療養中の府委員会顧問、田畑シゲシが死去し、府党は追悼式をおこなった。
9月、政府の有事立法の策動は各界の憤激をよびおこし、緊急の行動が取り組まれ、10月には、2百20人にのぼる国会請願代表団が送られ、また、10月1日からの市電撤去に抗議する集会や、11月には一般消費税反対期成同盟が34万の署名を集めて決起集会を開くなど大衆運動が盛り上がった。「京都民報」も毎号8頁だてが実施された。12月2、3日、第33回府党会議がひらかれた。それまで京都で指導にあたっていた茨木府委員長代理は中央へ帰任した。
12月東地区委員会が左京地区と東地区委員会に分割した。
後退を取り戻し新しい前進へ
1979(昭和54)年1月14日、亀岡市長選で現職・小島幸夫市長が惜敗し、衆院2区補選の有田光雄は12万3,362票で次点となり惜敗した。2月18日の京都市長選では、党も支持した舩橋市長が3選された。
続いて4月のいっせい地方選では、府会で乙訓から出た革新共同の野村みのるをふくめて15人、京都市会で19人の当選で、市会では初めて議席を減らした。東京、大阪の知事選では革新の陣地を失った。後半戦では市町会で63人が当選し、全府下で党の地方議員は162議席へと前進した。6月、京都市会でも党は初めて副議長として平田敏夫が選出された。この年の「京都赤旗まつり」は、岡崎一帯でおこなわれ、約4万人が結集して、総選挙必勝への気運を高めた。
勢揃いする京都選出の国会議員
10月7日におこなわれた総選挙では、全国的にも41議席に大きく躍進するなかで、1区では、梅田勝が5万千2百99票で2位、藤原ひろ子が4万8,248票で、4位となりそろって当選し再び複数議席を回復した。2区では寺前巌が13万6,730票の最高点で当選して、京都の全員が勝利し、全国的な躍進に貢献した。きびしい反動攻勢のもとで、この躍進をかちとったのは、3年間、不屈に奮闘し、党勢拡大運動のとりくみなど全体として上り坂の気運をつくり、力を集中した結果であった。
10月、府党は、70年代後半を後退から前進へとすすめるべく、新たな党勢の峰をめざして「公約実践、政策普及、党勢拡大月間」を決定した。11月の京都地評大会は、労働戦線の右翼的再編に反対する13単産修正案の成立を右派が妨害して、休会となった。こうしたなかで、京都統一労組懇は、203組合を結集して、京都の労働運動に大きな役割をになうまでに前進をとげた。