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京都府委員会の紹介

2.京都破壊を許さず、府民の利益を守って

京都破壊にたいし、京都を愛する思いを一つに

 1980年代から90年代にかけて、財界・大企業の利益のための「民間活力導入」と規制緩和路線のもと、京都の自然と景観、まちなみの破壊、「京都が京都でなくなる」事態がすすみました。

 鴨川ダム、京都ホテルや京都駅ビルの高層化、マンションラッシュ、京都市内乗り入れの高速道路、京都御苑への第二迎賓館、丹後リゾート、舞鶴和田埠頭、府内各地のゴルフ場などの大型公共事業や開発計画が次々とうちあげられました。

 京都破壊の進行は、日本と世界に大きな波紋を広げ、「京都を守れ」の声が大きく広がりました。

 日本共産党は、府民とともに、京都を愛する思いを一つに京都破壊を許さない運動をすすめました。

 94年には、京都市の地下鉄東西線工事費の膨脹が大問題となり、日本共産党京都市会議員団は、議会招集権を活用し、臨時市議会を開催させ、徹底的に追及しました。

 京都市が92年5月におこなった京都市西京区の「ポンポン山」ゴルフ場予定地の買収価格が不当に高いことが問題化、党は住民とともに徹底追及しました。住民訴訟が取り組まれ、粘り強い運動の結果、大阪高裁は2003年2月、当時の京都市長に26億円の返還を求める判決を下しました。

府民の苦難解決を府民とともに

 90年代にはいって、「バブル経済」が崩壊、日本経済は景気の低迷と失業者の増大で、個人消費も大きくおちこみ、かつてない長期の不況にみまわれるようになりました。不況が深刻化するなかで、丹後の自殺者が2年間で30人にもなり、NHKテレビ「クローズアップ現代」や週刊誌でとりあげられるなど、大きな社会問題となりました。

 「不況110番」開設や中小企業年末特別融資制度を求める運動が広がりました。また、93年3月から4月にかけて京都市の高すぎる国保料の引き下げを求める直接請求が取り組まれ、2万3,498人の受任者が組織され、直接請求の期間である1カ月の間に25万人の署名が集められました。


阪神大震災被災地で支援物資をとどけ被害状況や要望を聞く府党救援団(上)、
海岸に漂着した重油を回収するボランティア(下)

 95年1月17日、阪神・淡路大震災が発生、京都でも震度5を記録しました。日本共産党は救援活動と救援募金の運動にただちに取り組みました。短時日の間に2,200万円の募金が集まりました。また現地への救援活動には、京都からのべ4,300人がかけつけ、救援物資はトラック18台分におよびました。

 京都府委員会は95年2月「阪神大震災の教訓を生かし、地震に強い京都をつくる緊急提言」を発表、府内全域で地震シンポや懇談会が開催されました。

 97年1月には丹後沖でロシア船籍のタンカー・ナホトカ号の重油流出事故が発生。丹後半島一帯に重油が流出し、大きな被害が発生しました。

 党は、国会をはじめ、府議会や地方議会で被害補償などを要求するとともに、重油回収のボランティアをよびかけ、府内各地から多くの党員が、重油回収にかけつけました。

 これらの活動は「住民の苦難の解決を」という日本共産党の真価が発揮された活動でした。90年代を通じて若い世代のおかれている状態が悪化するなかで、仕事や生き方をめぐって真剣な模索が強まり、阪神・淡路大震災や薬害エイズ問題などをきっかけにさまざまなボランティア活動への若者の積極的な参加が広がりました。

 民青同盟の「夢をあきらめない生き方」というよびかけが共感をよびました。こうした変化、たたかいとむすんで、若い世代のなかでの党活動前進への転機がきりひらかれていきました。

90年代前半の地方選挙

 90年代前半の京都での首長選挙や議員選挙は、ソ連・東欧問題をつかった反共攻撃・「社会主義崩壊論」「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が集中したなかでの厳しい選挙戦となりました。党は、世界と日本のなかでの日本共産党の役割と「日本共産党と府民の共同が、府民の暮らしと京都を守る力」だと訴え、一つひとつの中間選挙を重視してたたかいました。

 90年、94年知事選挙では民主府政の会・木村万平候補が立候補、30万3,279票、28万5,614票を獲得、健闘しました。93年7月に「非自民」をかかげた細川内閣が誕生、その直後にたたかわれた京都市長選挙では、「オール与党」陣営を相手に、政党としては日本共産党だけが推薦した、民主市政の会・井上吉郎候補は得票率44.8%を獲得、大善戦となりました。この結果は「日本の政治の革新的な方向がどこにあるかを示す選挙戦」(日本共産党19回党大会・第10回中央委員会総会)となりました。

 91年いっせい地方選挙で党は、府議会で1議席増の14議席、京都市議会で18議席、後半戦で4市で23議席、18町で41議席を獲得、京都の地方議員数は、いっせい地方選挙直後としては過去最高の164名になりました。

 93年京都市長選挙と同時にたたかわれた伏見区府議会補欠選挙(定数2)で佐藤和夫が当選、党の府議会議席は史上最高の15議席となりました。94年知事選挙と同時にたたかわれた中京区府議会補欠選挙(定数1)で倉林明子が当選、党の府議会議席は、過去最高をさらに更新、16議席になりました。

 95年いっせい地方選挙で党は、府議会で13議席、京都市議会で過去最高の20議席、後半戦で4市で21議席、18町で44議席を獲得、京都の地方議員数は史上最高の171議席になりました。1979年時点では他党の議席合計は243で、党の議席は162でその67%でしたが、この95年いっせい地方選挙時点で、党の議席数は他党の合計をうわまわりました。「社会主義崩壊論」「体制選択論」の攻撃のなか地方議会での前進は、90年代後半の躍進の流れの力をつくりだすものでした。

 94年12月、野田川町長選挙で、太田貴美候補が自民党現職を破り当選。京都ではじめての女性首長が誕生しました。党は太田候補を支持しました。

 「社会主義崩壊論」や「体制選択論攻撃」をはじめとした反共攻撃のなかで、荒巻京都府知事は、反共攻撃の先頭にたち、94年2月府議会本会議では、党綱領までもちだして「日本共産党に地方自治を語る資格はない」との攻撃をおこないました。

 京都府委員会はこの発言を重視、「日本共産党こそ、いっかんした地方自治の擁護者。荒巻知事による、日本共産党の歴史と路線をねじまげた攻撃に抗議し、撤回を求める」との府委員会声明を発表、日本共産党の地方自治にたいする見解、科学的社会主義の地方自治論、過去、現在、未来にわたって、日本共産党が一貫した地方自治の擁護者であることを明らかにし、荒巻知事に発言の撤回を求めました。また、その後も繰り返された荒巻知事の反共発言にたいし、95年9月には論文「荒巻京都府知事のたび重なる反共妄言は許されない」を発表、徹底した批判を展開しました。

 90年代に展開された「冷戦終結」論などの誤りは、21世紀初頭のアメリカの核先制攻撃戦略や単独行動主義とその展開のなかではっきりと証明されました。

2005年6月14日掲載
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