老人医療、健保、年金改悪に反対する府民運動
1981年3月、臨時行政調査会が設けられ、政府は、8月、「行革大綱」を決定し、11月には「行革」1括法案を成立させました。臨調「行革」路線のもと、老人医療費の有料化(82年)、本人1割負担導入の健康保険法改悪(84年)、年金制度改悪(85年)などが、次々に実行されました。さらに、89年4月には、消費税の導入が強行されました。
臨調「行革」路線の強行にたいして、京都でもこれまで自民党の影響下にあった人たちをふくめて広範な層に大きな不安が広がりました。国鉄の分割・民営化とローカル線廃止に反対する労働者と関係住民、専売公社の特殊会社化に反対する労働者とたばこ小売業者・生産者、許認可の合理化の名による自由化に反対する運送業関係者、クリーニング・理美容業者、記帳の義務化と総収入申告に反対する中小商工業者などがたたかいに参加しました。また、老人保健法の成立によって、全国に先がけて実施されてきた老人医療費無料化が破壊されることに新たな怒りがまきおこりました。日本共産党は、こうした府民の運動とともに議会内外で論戦と運動を展開。府議会をはじめ府内23議会で反対の意見書を採択しました。また、京都大運動実行委員会と臨調路線反対各界連絡会議が集めた「ニセ行革」反対の署名は82万人以上に達しました。
83年9月には、健康保険被保険者1割自己負担の「健康保険の改悪に反対する全京都連絡会」が結成され、地域毎の連絡会も急速に発展しました。1割負担に反対する署名が府内で75万人に達し、84年6月に健康保険法改悪反対・府民大集会が開催され、「健保本人の10割給付継続」を求める意見書も府内自治体の6割で採択されました。
消費税反対で幅広い共同
消費税反対・廃止のたたかいは、この時期のもっとも中心的な府民運動のひとつでした。87年3月には、中小業者を中心とした大型間接税反対京都期成同盟と京都総評、京都地方同盟、中立労連、消団連など労働、市民団体を結集した全国でも例のない全府民的統一組織、「売上税に反対する京都府民連絡会」が結成されました。統一労組懇、京商連、日本共産党などでつくる「売上税導入・マル優廃止反対京都連絡会」も、府内全地域に地域連絡会をつくり、強力な取り組みをすすめました。
88年9月、リクルート疑獄、明電工事件などと消費税問題とがむすびつき、国民の怒りがますます燃えあがり、京都では、消費税粉砕京都府民大集会に2万人が参加。「9. 18中央集会」に京都から2,200人が参加するなど、日本共産党と京都連絡会が中心となってたたかいが大きく前進。消費税反対の共闘組織は、60年安保闘争時をうわまわる198の行政区、学区に組織され、創意的な宣伝行動や集会、デモ、署名が連日おこなわれました。
88年12月には、「大型間接税に反対する京都府民連絡会」が結成され、西陣織工業組合の理事会、総代会が「消費税反対」を決議し、京都商店連盟、京都市小売商総連合会、京都小売市場総連合会の3団体主催の総決起大会がひらかれました。商店街に「消費税絶対反対」の横断幕がいっせいに掲げられるなど、これまで自民党の支持基盤であった各種業界団体があいついで反対にたちあがり、地方議会でも京都府議会・京都市議会と府内の16の地方議会で反対の意見書、決議が採択されました。
自民党はいっせい地方選挙で大敗し、売上税の導入をいったんは断念せざるを得ませんでした。
しかし、自民党は、その後も大型間接税の導入に執念を見せ、消費税法の導入を策動。公明党、民社党の協力で強行しました。
反核・平和の旗かかげ
27000人が舞鶴港を包囲
80年代にはいって、レーガン政権の限定核戦争構想とこれに追随する自民党府政のもと、かつて民主府政時代には、1度も入港しなかった米艦船が79年以降89年までに計14回31隻も入港、核積載可能艦船は20隻にもおよびました。舞鶴海上自衛隊の実装水雷調整所建設や北吸桟橋の機能強化、経ケ岬レーダー基地の日米共同使用などがすすめられ、住民の不安や反対を無視して対潜ヘリコプター基地建設計画を推進、日本海での日米合同演習も急増しました。
こうした危険な動きにたいし、日本共産党は、核兵器廃絶、平和の運動を府民と共同してすすめました。84年、米核戦争態勢に日本をまきこむ核巡航ミサイル・トマホークの太平洋艦隊への配備にたいして、広範な府民の反対運動がおこり、核戦争阻止の声が大きく高まりました。「核巡航ミサイル・トマホークくるな! 京都府民運動連絡センター」の主催した「5. 27舞鶴集会」に2万7,000人が参加。11月の全国、全府統一行動では宇治市・大久保、舞鶴市、丹後町の各自衛隊基地の包囲行動がとりくまれました。
81年7月、下京区の近鉄百貨店(当時)で「平和のための戦争展」がはじめて開催され、6万8,000人が入場、大きな反響をよびました。「戦争展」は職場、地域、学園での「ミニ戦争展」となって府内各地に広がり、平和の世論を大きく広げました。
この間、京都原水協、京都生協などを中心に「非核自治体宣言」実現の運動が取り組まれ、府内の24自治体で「非核宣言」がおこなわれ、87年7月には「ヒロシマ・ナガサキアピール」署名が府民の過半数をこえるなど、核兵器廃絶と平和を願う声が高まりました。また、第17回党大会が提唱した「非核のための5項目」の合意と共同の提起にもとづいて、60回におよぶ懇談会が積み重ねられ「非核の政府をもとめる京都の会」が87年10月に結成されました。