京都市政をめぐる攻防と自民・財界市政への転落
1981年に発足した今川市政のもと、82年に公明党が火付け役となって、寺院を訪れる市民や観光客に課税する古都保存協力税(文化観光税)条例が強行されました。83年には不公正な同和行政を温床とした3億円の公金不正支出事件が発覚しました。
京都市は、この時期に京都市内高速道路計画や向島サイエンスタウン構想などの大型プロジェクトを次々とうちだし、規制緩和によって宝ヶ池への西武プリンスホテルなどの建設が強行されました。
これには、府・市・財界による3者の定期協議が財界と林田府政によって呼びかけられたり、財界主導の「建都1200年事業」が計画されるなど、京都市政の変質、とりこみをたくらむ京都財界の構想が背景にありました。
党は、市政の積極面については評価するとともに、こうした問題点は率直に批判し、是正を要求して、京都市政の民主的発展に努力しました。今川市長の公約であった「1党1派に偏することなく、憲法と地方自治法に基づき市民本位の清潔で公正な民主市政を推進する」という基本姿勢からの逸脱・後退を厳しく批判するとともに、84年9月に「京都市政問題懇談会」を開催し、「今川市政は財界本位か市民本位かの岐路にたっており、革新的施策の実現を迫る大運動を」と提起しました。10月には対市要求連絡会(「京都市民の要求実現をめざす全京都市連絡会議」)が結成され、京都市に市民要求の実現と革新的施策を求める市民運動が広がりました。85年6月には民主市政の会(「市民本位の民主市政をすすめる会」)が発足しました。
今川市長は85年6月の市議会本会議で「戦後40年の発展は政権政党である自民党のおかげ」と自民党を礼賛し、「(今後は)自民党と十分連携をとりながらやっていく」と発言し、自民・財界奉仕の道にすすむことを公然と宣言しました。8月の京都市長選挙では、告示日の直前に市民不在で一部寺院との古都税「和解劇」・選挙乗り切りのための政治謀略までおこなわれました。「民主市政の会」は湯浅晃氏を擁立し、14年ぶりの本格的な対決選挙をたたかい、約14万票を獲得しましたが、惜敗しました。
京都市政が自民・財界路線に転落したもとで、党は、市民との共同を広げながら、富井・舩橋市政時代の成果を守り、市民要求の実現に奮闘しました。88年3月には、6年間にわたって京都市政を混乱させ、市民の暮らしと京都経済に大きな打撃を与えてきた古都税条例を廃止させました。政党では唯一日本共産党だけが反対をつらぬいてきたもので、自治省が許可した法定外普通税を実施期間のわずか4分の1で廃止に追い込むというのは制度始まって以来の画期的な成果でした。
また、ゆがんだ同和行政を温床にして、83年の3億円公金不正支出事件に続いて、86年には2億円公金不正支出事件が発覚しました。さらに、日本共産党の調査と追及によって架空書類による新たな公金不正事件が次々と明らかになるなか、87年12月市会では「同和行政見直し決議」が全会一致で可決されました。これらは、京都市発行の『京都市会史』でも「同和行政の進め方に大きなインパクト」と記されました。
京都市政をめぐる攻防は、市民とともに市政刷新をすすめる日本共産党の役割とともに、悪政になんでも賛成する「オール与党」の姿を浮き彫りにしました。古都税を即決・強行した「オール与党」にたいし、マスコミからも「地方議会の衰退」(「朝日」85年1月5日付社説)の典型的事例として批判の声があいつぎました。
89年京都市長選で321票差の大激戦
89年京都市長選挙
「民主市政の会」政策ポスター
80年代後半、京都市の民間活力導入・規制緩和路線のもと、東京資本などによる土地買い占めや悪質な地上げ屋による底地買いが横行しました。京都駅改築構想や京都ホテルの60メートルのっぽビルへの建て替え計画など京都の景観破壊がすすむなか、「このままでは京都が京都でなくなる」と草の根から住民運動が大きく広がり、「まちづくり宣言」などが各地に広がりました。党は、こうした住民運動と連携して大企業本位の開発計画に反対し、住民本位のまちづくりをめざして奮闘しました。
89年7月の参議院選挙直後の8月にたたかわれた京都市長選挙では日本共産党をはじめ労組、民主団体など85団体が参加する民主市政の会の木村万平氏が「21京を創る懇話会」、京都総評、住民運動団体でつくる「草の根連絡会」など、広範な人たちに推されて奮闘、14万8,515票を獲得し、自公民3党などが推す田辺朋之氏とわずか321票差に迫る大接戦となりました。政党としては日本共産党だけが推す木村万平氏が大善戦したことは、中国の天安門事件を利用した激しい反共攻撃によって参議院選挙で後退したもとで、全国と京都の党と民主勢力をはげまし、新しい住民本位の地方政治を実現する展望と確信を与えました。
この市長選挙でマスコミは「京都ではいま、5年後に迎える平安建都1200年に向けて、地下鉄東西線をはじめ大規模プロジェクトがめじろ押しだ。そのほとんどが府、京都市、地元経済界の協力事業。仮に木村市政が実現すれば、それは市長与党の自公民を含む『利益共同体』の崩壊を意味する。...自民党府連からは建設業者に対し『期日後焼却』とした支援要請文書がファクシミリで流れ、個人演説会への動員人数が事細く指令」(「朝日」89年9月3日)と報道するなど、危機感に燃えた財界のすさまじい選挙戦が展開されました。
今川市政を引き継いだ田辺市長は、「清新な市政を」と市民むけポーズをふりまいて登場しましたが、その初仕事は違法開発でモヒカン刈りにされた一条山の全面開発許可でした。その後も、「消費税撤廃」「福祉を優先」「開かれた市政」などの選挙公約を次々と反故にし、日本1高い国保料をはじめ毎年のように公共料金を値上げし、京都破壊をすすめました。これにたいし、広範な市民と日本共産党の共同で、321票差まで追いつめた力が、草の根からの住民運動の前進ともあいまって大文字山ゴルフ場計画や鴨川ダム計画を撤回に追い込みました。
ゴルフ場、宮津火電、久美浜原発計画など、各地のたたかい
美しい故郷と海を守ろうと
広がる住民運動
80年代、地方自治体と住民に対する攻撃が強まるなか、日本共産党は、国保料など各種公共料金の値上げ反対、鉄道や"過疎バス"の存続を求めるたたかいなど、臨調「行革」路線・「地方行革大綱」の具体化に反対し、住民生活を守るたたかいに力をそそぎました。同時に、エスカレーター設置など駅舎の改善、高層マンション建設反対、建物の高さ規制緩和に反対し、古都のまちなみを保全するたたかい、固定資産税・都市計画税の引き上げ反対など切実な住民要求の実現めざして奮闘し、多くの成果をあげてきました。
また、丹後リゾー卜開発や宮津火電計画、瑞穂町への産業廃棄物処理場建設、都市部での再開発や大型プロジェクトなどが府内各地で次々に浮上。府内50カ所以上でゴルフ場開発が新たに計画され、農薬汚染、自然破壊などへの府民の不安が高まりました。党は、京都を愛し、京都のよさを守る広範な住民と力をあわせて、自然環境保護・景観保全のたたかいを各地ですすめました。84年5月に宮津火電・久美浜原発計画に反対する北部決起集会が開かれるなど、反対運動が各地で高まりました。
いっせい地方選挙での前進
国政でも、京都でも、日本共産党をのぞく「オール与党」体制のもと、国・府の自民党の悪政が府民の暮らしと京都の破壊をすすめるなか、唯一の革新的対決者として府民の利益を守って奮闘する党の姿が各地で鮮明になり、京都の地方議員数は着実に増えて、地方議員第一党を維持・前進させてきました。
党が地方議員第一党となったのは、1971年、その時の議席数は119でした。党は83年4月のいっせい地方選挙において、府議会で15議席、京都市議会では東山区で議席を回復し19議席を確保。後半戦では2市7町で議席をふやして62名が当選、改選時比1議席増で、新たに4町で提案権をもつ議員団を確立しました。日本共産党の地方議員数は161名となり、ひきつづき第一党の地位を獲得しました。しかし、和知町で議席を失い、京都で唯一の空白議会をつくりました(4年後に回復)。
87年4月のいっせい地方選挙で、党は、京都府と7町で計47議席の定数削減のなか、前・後半戦とも得票、得票率を前進させて合計96人が当選。非改選議員をあわせるといっせい地方選挙後の議員数では過去最高(162人)に並びました。前半戦の京都府・市議選で、党は過去最高の得票、得票率を獲得。府会で右京など3選挙区で"自共複数対決"に勝利しました。定数が削減された東山など3選挙区で現職が惜敗し、改選時比1減の13議席になりました。京都市会では現有議席を確保しました。この結果、党は、府議会、京都市議会でひきつづき第二党の位置を確保。自民党の後退によって自・共対決の構図がいっそう鮮明になり激しさを増すことになりました。また、後半戦では2議席増となりました。
その後の中間選挙を通じて日本共産党の地方議員総数(革新共同2人を含む)は88年に過去最高の165人に到達しました。
89年参議院選挙と同時にたたかわれた南区市議会補欠選挙(定数1)で藤井佐富が当選、党の京都市議会議席は過去最高の20議席となり、自民党の21議席にあと1議席とせまりました。