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活動と政策

2023.1.7 (土)

『京都府党100年のあゆみ』刊行記念のつどい / 渡辺和俊府委員長の記念講演

2023年1月7日におこなわれた「『京都府党100年のあゆみ』刊行記念のつどい」で、渡辺和俊京都府委員長が記念講演をおこないました。その要旨を掲載します。
「つどい」全体の録画は、こちらでご覧いただけます。
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「京都府党百年のあゆみ」刊行記念講演    2023年1月7日

府党100年の歴史に学び、再び「日本の夜明けは京都から」                        

日本共産党京都府委員会委員長 渡辺和俊

はじめに

  党創立100周年記念講演で、志位委員長は党史を貫く「3つの特質」をあげました。

 第1の特質/どんな困難なもとでも国民を裏切らず、社会進歩の大義を貫く不屈性

 第2の特質/科学的社会主義を土台にした自己改革の努力

 第3の特質/国民との共同……統一戦線で政治を変えるという姿勢を貫く

 

 党創立(1922年7月15日)の翌年、1923年1月1日に西陣の民家に6人の党員が集まって出発し、今日、15地区900支部に1.5万人の党員を擁するに至った京都の党の歴史も、まさにこの「3つの特質」を存分に発揮して歩んできた100年でした。 

 本日は、100周年記念事業として新しく編集・刊行した「京都府党百年のあゆみ」について、皆さんに汲み取っていただきたい中心点に絞って、お話しします。

(1)新たな視点で全面的に加筆・補正

 京都の党史編纂の経過を振り返れば、党創立50周年の1972年に府党の「略史年表」が作成され、「前衛」の「わが地方の進歩と革命の伝統」に掲載されたのが最初です。60周年に「前衛」が特集した「わが地方の日本共産党史」を受け、京都府委員会は「京都府党60年のあゆみ」を刊行しました。2003年の80周年に刊行した「京都府党のあゆみ」は、「60年のあゆみ」にその後の20年分を新たに書きおろして加えた二部構成の冊子でした。

 今回の「京都府党百年のあゆみ」の編集には、党内外の多くの方々の助言やご意見もいただき、2020年の綱領改定や党創立100周年記念講演をふまえ、新たな事実も掘り起こして全面的に加筆・補正し、百年の通史として完成させることができました。第7章「2000年代」の121ページ以降が、今回新たに書きおろした部分です。

  新たな加筆・補正として、例えば、「60年のあゆみ」には、創立に加わった6人以外に「丹後出身の河田賢治は東京で入党」とありますが、実はもう一人、丹後出身の平林初之輔も入党していたこと、また最初の党会議の場所がこれまで「辻井宅」とのみ記していたのを、当時の町名を調べて書き加えるなど、“新発見”の事例は少なくありません。

 今回の一番の修正点は、「ジェンダー平等社会をつくる」ことを綱領的任務に位置づけた2020年の綱領改定をふまえ、女性たちが果たした役割を加筆したことです。このことがかなり欠落していたのが、以前の党史編集の弱点でした。今回は、5つの章で新たに項を起こして、京都の民主的な運動と党活動の発展で女性たちが果たした役割をまとめて記述しました。これには、女性史研究者や新婦人京都府本部のご協力をいただきました。

  そのごく一例をあげますと、女性に選挙権がなく、治安警察法で女性の政党加入が禁止されていた戦前に、日本共産党に加わった女性党員が少なからずいたこと、京都の主な労働争議で女性労働者が大きな役割を果たしたこと(第1章)。1947年、安井信雄が戦後初めての京都市議に当選した左京区の市議選に、戦直後に入党した女性党員・児島とみが立候補していたこと(落選)や、戦後民主化の一環だった教育委員公選に、革新派の中井あいを含む3人の女性が立候補して全員当選したこと(第2章)。1967年に党公認の吉村久美子が府議会史上初の女性議員となり、後に女性初の副議長に選出されたこと(第4章)。「京都府男女平等条例案」など積極的な政策提起に取り組んだこと(第7章)等々を新たに書き加え、第9章でも直近の取り組みと到達点を記述しました。

 「ジェンダー平等」の実現は、党の活動と組織のあり方として、今後なおいっそうの探求と努力が求められる課題となっています。

(2)60年代から今日まで/共同の一貫した努力と反共・分断攻撃との激しい攻防

 志位委員長の記念講演では、上述の「第3の特質」をめぐって、綱領確定以降の「1960年代~70年代」、「1990年代後半」、「2010年代中頃」の「3つの日本共産党躍進の時期」に、支配勢力が反共キャンペーンと反動的政界再編で応えてきたこと、これにわが党が正面から立ち向かい、乗り越えて前途を開き、統一戦線で政治を変える立場を、どんな困難なもとでも、新しい情勢に即して発展させてきたと述べ、「この60年余は、『政治対決の弁証法』と呼ぶべき支配勢力との激しいたたかいの連続」だったと振り返りました。

  今回の「京都府党百年のあゆみ」で、党躍進の「3つの時期」全体を通して、京都における「政治対決の弁証法」の激しい攻防を俯瞰できるようになりました。これら全体から教訓を汲み取ることは、今後の京都の党と民主勢力の前進にとって大切です。

①「党躍進の第1の時期」の攻防

  自民党は、“革新の灯台”と呼ばれた蜷川京都府政打倒に執念を燃やし、70年知事選で、政党の得票実績では蜷川陣営を凌駕する「自公民連合」をつくって襲いかかりましたが、蜷川知事が大差で圧勝しました。これは、労組・民主団体や共産党・社会党による革新統一とともに、府医師会や府連合青年団など保守層も含む共同による勝利でした。この時期、全国に広がった革新自治体には、最高時で人口の43%が暮らし、福祉の充実や公害対策など住民本位の優れた政策を実行して、国政にも大きな影響をおよぼしました。

  統一戦線で政治を変えるために力を尽くす日本共産党への府民の信頼も強まり、60年代の党づくりの大きな前進も力になって、定数2の参院京都選挙区で河田賢治の初当選(68年)、72年総選挙の全国的な党躍進と一体に、定数5の衆院1区で谷口善太郎・梅田勝の複数議席獲得、同じく79年総選挙の梅田・藤原広子の複数議席獲得など、国政選挙での躍進も続きました。

 この躍進に対して、激しい反共・分断攻撃がくわだてられました。78年知事選で社会党が革新統一から離れ、28年続いた蜷川府政が落城しました。この選挙で、全国で初めて統一協会・勝共連合が本格的に姿を現し、反共・分断の先兵として策動しました。78年に府内45自治体中27を占めていた革新自治体も、89年には八幡市政のみに後退しました。国政では共産党を政権構想から排除する「社公合意」(1980年)が結ばれました。

②「党躍進の第2の時期」に向かう攻防                   

  1980年代から90年代にかけて、臨調行革路線による暮らしと社会保障への攻撃が強まり、日米同盟の強化も進みました。天安門事件を利用した反共攻撃(89年)、ソ連崩壊(91年)にともなう「冷戦終結論」・「体制選択論」・「保革対立解消論」が吹き荒れ、党の前進を阻みました。86年京都府知事選で社会党が初めて自民党と連携し、90年代には、「政界再編」で新しく生まれた政党も含めて、多くの政党が自民党と連立し、国政において日本共産党を除く「オール与党化」が進みました。そのもとでも党は、無党派との共同で多数派をめざす運動に力を注ぎました。この時期の京都でのたたかい、共同の努力には、次の3つの特徴があります。

  第1に、暮らしと平和、革新分断攻撃には大規模な社会的反撃で対抗したことです。

 京都総評は労働戦線の右翼的再編に抗し、中央総評が解散するもとでも「反独占・革新統一」の旗を掲げて存続し、全労連に加盟しました(89年)。「私学助成条例直接請求」に70万筆(80年)など、この時期の各種署名運動は数十万規模で取り組まれました。自民党府政下、舞鶴への核搭載可能米艦船の入港が相次ぎ、米太平洋艦隊へのトマホーク配備に反対する舞鶴集会(84年)には2.7万人が参加しました。81年に6.7万人を動員して初めて開かれた平和のための「戦争展」は、今日まで粘り強く続けられています。

 第2に、「オール与党」体制と対決し、首長選挙での共同に力を尽くしたことです。

 保守を含む広範な無党派勢力との共同に努力し、知事選・京都市長選をはじめ首長選挙を果敢にたたかって相手候補に肉薄し、「オール与党」勢力の基盤を大きく崩しました。

 第3に、京都のまちづくり運動が発展したのも、この時期の重要な特徴です。

 京都府・市政が推進し、歴史都市京都の文化と自然、景観を壊す「大文字山ゴルフ場」「鴨川ダム」「ポンテザール橋」などの計画には、保守の人々からも反対の声があがり、知事選や京都市長選の大争点にもなって阻止しました。

  これらの府民のたたかいに連帯して議会内外で力を尽くした日本共産党への府民の信頼が高まり、「体制選択論」攻撃が吹き荒れた92年参院選では西山とき子が定数2の選挙区議席を奪還し、小選挙区制のもとで最初の96年総選挙では26万比例票(24.02%)を獲得して、京都3区で寺前巌が当選しました。知事選で、98年には自民党府政下最高の得票率、2002年には最高の得票数で「オール与党」勢力を押し返しました。98年参院選で、党は過去最高の比例28.7万票(25.64%)で自民党を追い抜いて第一党となり、選挙区では自民党を落として西山再選をかちとりました。

③「党躍進の第3の時期」に向かう攻防と今日の局面

  日本共産党の「第2の躍進」を受けた2000年の京都市長選挙で、公明党・創価学会が謀略的な反共攻撃に打って出て、党はこれに有効な反撃をできずに前2回の大善戦から後退しました。同様の反共謀略が全国的に展開された同年の総選挙で、党は後退を喫しました。以後、小選挙区制と政界再編をテコに財界主導で保守「二大政党づくり」が仕組まれ、12年までの国政選挙で、わが党は議席の停滞・後退を余儀なくされました。

 わが党候補が惜敗した2001年参院選京都選挙区では、99年に自民党との連立に踏み出した公明党が民主党候補にてこ入れし、03年統一地方選では定数2の府会選挙区で、公明党が公然と民主党候補を推薦しました。

  この時期に、党と統一戦線勢力は、「9条守れ」「消費税廃止」「原発ゼロ」「TPP反対」「米軍基地撤去」など、「一点共闘」に力を尽くしました。「押しつけ合併」に反対する住民運動(04年~06年)では保守も含む共同が広がりました。06年大山崎町長選の勝利につづき、08年京都市長選挙では「オール与党」候補に951票差に迫り、後期高齢者医療制度が大争点となった同年の南区市議補欠選挙(定数1)の勝利など、選挙戦でも「オール与党」勢力と対決して押し返しました。

  2009年総選挙で、「コンクリートから人へ」「労働者派遣法抜本改正」「普天間基地の国外ないし県外移設」などを公約した民主党が圧勝し、民主党政権が発足しました。しかし、最終的には、辺野古新基地容認、TPP推進、原発再稼働容認、消費税増税の自公民「三党合意」など公約を破り、12年に崩壊しました。その結果誕生した第二次安倍政権が新自由主義の政策と改憲・軍拡の道を突き進むとともに、国政私物化が顕著になりました。

 党躍進の「第3の時期」は、「自民か民主か」の保守「二大政党づくり」の流れに与せず、特に3.11東電福島原発事故後の「原発ゼロ」のたたかいなど、一貫した自民党政治との対決者としての日本共産党の役割を際立たせ、2013年参院選、14年総選挙での党躍進につながりました。京都でのその象徴的勝利の一つが、倉林明子当選によって15年ぶりに定数2の参院京都選挙区議席を奪還したことです。

 秘密保護法(2013年)、集団的自衛権行使容認の閣議決定(14年)、戦争法(15年)に反対する市民運動の高揚と、その間の国政選挙での日本共産党躍進も力となって、市民と野党の共闘が進み、16年参院選で初めて国政選挙での野党共闘が実を結びました。この流れの中で総選挙での野党共闘に期待が高まりましたが、17年衆院解散と同時に仕組まれたのが、民進党と希望の党の合流という共闘への大逆流でした。

 この総選挙で党は後退を余儀なくされましたが、党が共闘を守るために力を尽くしたことに信頼を高めた多くの府民とともに、「民主府政の会」の枠組みを超える新しい共同を広げ、2018年京都府知事選挙で、自民党府政下最高の44.1%得票という新たな前進を切り拓きました。19年参院選では倉林再選をかちとり、全国の選挙協力が実って野党が1人区で議席を増やし、参院議席の改憲勢力「3分の2」を阻止する成果をあげました。この流れの中でたたかわれた20年京都市長選挙では、新聞の一面広告を使った未曾有の反共キャンペーンが行われましたが、これへの全国的な批判が巻き起こり、反共と「オール与党」体制の破たんが顕著になりました。

  2021年総選挙では、市民連合が提案した20項目の共通政策、日本共産党が閣外から協力する政権合意、与野党が議席を争う主要な小選挙区での選挙協力の3点で野党が合意し、戦後初めて、政権を争う衆院選挙での野党共闘が実現しました。これに対して、政権勢力は日本共産党の綱領に攻撃を集中して野党分断をはかり、共闘は一定の成果をあげるも、政権交代には至りませんでした。この選挙で、京都では立憲民主党京都府連がわが党府委員会による共闘のための協議に応じませんでしたが、1・3・6区で日本共産党と立憲民主党候補のいわゆる“棲み分け”となり、党府委員会は1区の勝利に力を尽くしましたが、及びませんでした。3・6区では立憲民主党候補への投票を呼びかけました。その結果、比例復活を含む京都選出の自民党衆議院議員が選挙前の6から3議席に半減する政党の力関係の大きな変化がもたらされました。

 続く2022年参院選では野党共闘が大きく後退し、ウクライナ危機に乗じた日本共産党攻撃と相まって、わが党を含む野党が議席を減らす結果となりました。

 以上の「3つの時期」を通じて、政権勢力の反共・分断攻撃をそのつど押し返し、前進に転じることができたのは、京都の「3つの力」が発揮されてきた結果でした。

  第1の力は、京都総評に結集する労働組合や民主諸団体が、悪政への社会的反撃でも首長選挙でも統一戦線の立場で力を発揮し、広い市民との共同に努力してきたことです。

 第2の力は、1970年代以降、反共攻撃に攻め込まれたり、国政選挙で後退した時期にも、草の根で府民と結びついた地方議員団の力を維持・発展させてきたことです。党地方議員数は、71年の統一地方選挙で初めて府内「第一党」となり、以降今日までその地歩を維持してきました。特に、民主府政落城の78年以降、府政・京都市政の「オール与党」体制が続き、国政の「二大政党づくり」の嵐が吹き荒れたときも、府議団は11~16議席、京都市議団は14~21議席を確保し、今日自民党につぐ「第二党」の地歩を築いて、府民要求実現と、府民的共同を発展させる力の源泉となってきました。今春の統一地方選挙での日本共産党の議席の維持・前進は、京都における今後の党と統一戦線勢力の反転攻勢にとって決定的な意義をもっていることを、あらためて強調したいと思います。

(3)党史に学び、府民に根ざしたしなやかで大きな党をめざす

 第3の力は、党自身の自力です。

 党躍進の「3つの時期」を振り返って痛感するのは、1960~70年代の「第1の時期」は、党と統一戦線勢力の前進・躍進が長く続きました。それはやはり、とりわけ60年代に、あらゆる戦線・分野で強く大きな党をつくることに力を注ぎ、今日に至る「人口比党員比率全国一」の党づくりに成功したからです。「第2」「第3」の時期も、時々の自民党政治と国民との矛盾、そのもとでの日本共産党の政治的役割の発揮が力となって党躍進が切り拓かれましたが、早い段階での反共・分断を許した一つの大きな要因は、70年代に到達した党の力が、80年代以降徐々に後退したからです。後退には客観的な条件も働きましたが、党づくりの主体的努力の不十分さもありました。

 京都における党づくりの苦労と努力の詳細は、「京都府党百年のあゆみ」各章にそれぞれ項を起こして詳しく振り返っています。私がここで、特に強調したいのは、京都の党の諸先輩が60年代に発揮した党づくりの知恵と努力です。現住所に最初のビルを建設したのも69年であり、今回、100周年記念事業の一環として、今後の100年を展望する新しい事務所を、多くの支持者・党員の力で建設することができました。第3章に詳述している60年代の党づくりの努力は、次の3点にまとめることができます。

 第1は、切実な要求にもとづく運動の先頭に立ち、労働運動や民主団体など基本的な運動組織の前進に力を尽くし、戦線・分野ごとの党づくりを重視したことです。

 第2に、選挙や府民的運動の前進で切り拓いた党躍進の政治的条件を汲み尽くして、その時々目標と期日を数字で明らかにして、独自に党づくりを追求してきたことです。

 第3に、党づくりの遅れを「宿命」とせず、例えば60年代当時、農村部で先進的な党づくりに成功していた長野県に見学団を送って経験を学び、発展させたことや、職場の中で3割の党員・5割の日刊紙読者、8割の日曜版読者をめざす、いわゆる「3・5・8運動」など、知恵を尽くし、職場も地域も今日で言う「支部が主役」の活動を重視したことです。61年の創刊から今日まで、京都の地方政治新聞として党を語り、共同を広げるとともに、京都らしい伝統や文化・芸術の発信にも大きく寄与してきた府党独自のメディア・京都民報の役割にも大きなものがあります。

  党員倍加などこの時期の党づくりの努力と、府政・京都市政の民主化を成し遂げ、定数2の参院京都選挙区で初の議席を獲得するなど選挙での前進との好循環が生み出され、「日本の夜明けは京都から」のスローガンが語られ始めたのも、60年代でした。

  今日の時代の党と国民の関係の新しい変化と発展に見合った党づくりの方針は、第28回党大会第二決議に全面的に示されています。これを指針に、京都の先輩たちの努力にも学んで、府民に根ざしたしなやかで大きな党づくりに力を尽くす決意です。

おわりに

 戦前、絶対主義的天皇制が特高警察をつくって国民を弾圧しましたが、東京に続いて特高警察が配置されたのが京都でした。その特高が弾圧した「学連事件」は、治安維持法適用の全国第一号となりました。全国水平社の創立大会が開かれた(1922年)のも京都の岡崎公会堂でしたし、党が国会に歴史上初めて進出したのも、1928年の労農党・山本宣治の当選を通じてのことでした。本日は、時間の関係で、党史を戦前まで遡って論じることはできませんでしたが、100年を通じて、進歩・革命のたたかいと反共・反動の攻撃とのせめぎ合いが続いてきたのが、この京都の地です。

 大切なことは、このせめぎ合いは、同じことの繰り返しではないということです。100周年記念講演で志位委員長が強調したように、「反共と反動のくわだては、その一歩一歩が、自民党政治と国民の矛盾を広げ、その行き詰まりを深刻にして」、「その支配はもろく弱いもの」になっていて、今の日本の情勢は「大局的・客観的に見るならば新しい政治を生み出す『夜明け前』」ということができます。この「夜明け前」は、「異常な対米従属と財界中心の政治のゆがみを根本からだたす綱領をもつ日本共産党を躍進させてこそ」、現実のものとなります。

 実際、岸田自公政権が、「安保3文書」を閣議決定し、「敵基地攻撃能力保有」と改憲・大軍拡の道に踏みだしたのは、国会と国民よりもアメリカの世界戦略への「聞く耳」しかもっていないからです。従来の政府の言明すら投げ捨てて「原発の新増設」に走るのも、今なお避難生活を強いられる被災者や国民の声より、財界への「聞く耳」しかもっていないからです。この暴走をけしかけ、煽っているのが維新であり、自民も維新も「舞鶴を再び日本有数の軍事基地に」と叫び、自衛隊舞鶴基地配備のイージス艦へのトマホーク搭載がたくらまれています。「安保3文書」に明記された「統合ミサイル防衛能力」(IMAD)とは、アメリカの先制攻撃戦略の一環として、ミサイル防衛と敵基地攻撃を結合する考え方であり、京丹後のXバンドレーダー基地の機能と一体に、京都が戦争を仕掛け、戦場にされる事態は、絶対に許されません。

  京都の地方政治をめぐっても、昨年春の知事選挙での奮闘が、「北山エリア構想」や「北陸新幹線地下延伸問題」をめぐって、府民の反対世論の広がりとともに、「オール与党」勢力の新たな矛盾を生み出しています。

 京都府党が出発した100周年の年に、党と統一戦線勢力の反転攻勢の新たな一歩へ、来たる統一地方選挙勝利で力強く踏み出すとともに、再び「日本の夜明けは京都から」と、次の100年に向けて誇れる前進を成し遂げる決意をこめて、「京都府党百年のあゆみ」刊行にあたっての講演を閉じさせていただきます。

 

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