日本共産党の政権論(2)「70年代にも民主連合政府はできなかったのに・・?」
「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」と、かつて共産党は呼びかけたが、できなかった。本当にできるの?・・・こんな声が寄せられています。
*今、日本共産党は、次の総選挙で政権交代を実現して野党連合政権をつくろうと、他の野党に真剣に呼びかけています。日本共産党は、単独政権をめざしていません。社会発展のどの段階においても、「統一戦線」と議会活動の力で連合政権をめざす。これが、日本共産党綱領の一貫した立場です。
*70年代前半、労働組合や民主団体とともに、共産党と社会党(当時)が加わる革新統一の流れが発展し、京都・東京・大阪をはじめ、革新自治体が全国に広がりました。これらの自治体は、福祉の充実や公害規制など優れた実績をあげ、国政にも大きな影響を及ぼしました。この時期に、日本共産党は「民主連合政府」の実現を呼びかけ、奮闘しました。当時、日本共産党は国政選挙でも大きく躍進しました。ただ、当時の革新統一は地方政治にとどまり、国政で連合政権をつくろうという正式な合意が野党間で交わされることは一度もなく、国政選挙での野党間協力もごく例外的なものを除いて、実現しませんでした。
革新統一の流れが国政での政党間協力に発展するのを阻止するために、自民党は、70年代後半から徹底した反共攻勢に打って出ました。一方、野党の側では、共産党を「政権協議の対象にしない」と明記した社会党と公明党の政権合意(「社公合意」1980年)が結ばれて野党は分断され、国政での革新統一の機運は大きく後退しました。以後、与野党書記局長・幹事長会談や国対委員長会談も含めて、あらゆる国会運営の場から「日本共産党を除く」異様な体制がつくられたのです。1990年代後半の共産党の躍進によって国会運営からの排除の体制は一旦崩れましたが、2000年代に入ると、こんどは、「政界再編」と衆院選における小選挙区制度をテコとした「二大政党の政権選択」という大キャンペーンによって、わが党を「カヤの外」に置く共産党排除の体制は一段と強化され、野党共闘の芽はつぶされました。
*そうした困難な時期にも、日本共産党は、国民の苦難を解決する活動、革新懇(「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」)運動など、無党派の人々との共同の努力、そして日本共産党自身の組織建設に力を尽くしてきました。この努力が実り、2013年参院選(京都では、倉林明子当選による15年ぶりの参院京都選挙区での議席奪還)・2014年衆院選で、日本共産党の躍進を実現しました。また、東日本大震災後の原発反対、沖縄基地撤去のたたかい、安保法制反対のたたかいなど、市民のたたかいがかつてなく広がりました。保守も革新も一体となった「オール沖縄」の翁長県政が実現したのも、2014年でした。そして、70年代には袂(たもと)を分かっていた労働運動・平和運動が合流して「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」がつくられました。「市民革命」的な動きと「総がかり行動実行委員会」が合流して、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(「市民連合」)が発足しました。「市民連合」の後押しもあって、戦後日本の政治で初めて国政選挙(2016・2019参院選)での野党の選挙協力が実現し、参院の改憲勢力を3分の2以下に追い込むなど、重要な成果を収めました。
このように、日本共産党自身の政治的躍進と、広範な市民の立ちあがりという2つの力が働いて、30数年にわたる国政での「日本共産党を除く壁」が崩れ去り、市民と野党の共闘で、政権を変える新しい時代が始まりました。
*「市民連合」は、次の総選挙での政権交代を呼びかけ、「立憲野党」に対して、連合政権が実現すべき政策提言も行っています。70年代とはまったく違い、日本の政治で戦後初めて、野党連合政権実現が現実の課題となっています。もちろん、私たちの奮闘なしに野党連合政権は自動的に実現しません。逆流も生まれるかもしれません。日本共産党自身、政治的にも組織的にも、もっと力をつけなければ政権交代も、政権維持もできないと、自覚しています。
*「統一戦線」、すなわち、政治の主人公である国民のたたかいが盛り上がり、一致する要求・政策で、政党がその基本政策の違いを超えて力を合わせる。共闘の立場に立つ政党が議会活動に力を尽くし、国民に国政をめぐる判断材料を提供して、国民のたたかいと呼応・連帯する。すなわち、「統一戦線」と議会活動を通じて野党連合政権を展望する時代がやってきました。次の総選挙で必ず菅自公政権を倒し、野党連合政権を実現するために、力を合わせましょう。
引き続き、皆さんのご意見をお寄せいただければ、幸いです。
2020年11月10日 日本共産党京都府委員長 渡辺和俊