1980年代、国政では、反動攻勢が本格化しました。最大の問題は1980年1月、社会党が公明党との間で、日本共産党の排除という反共路線をうたった「連合政権についての合意」をとりきめ、「オール与党」体制がつくられたことでした。これによって、日本共産党以外の野党はすべて、対米従属と大企業奉仕という自民党政治の枠組のなかに組み込まれました。日本共産党をのぞく「オール与党」体制のもとで、自民党政府は、日米軍事同盟強化と国民生活への犠牲の押しつけを強行する路線をすすめ、日本の政治と国民生活全体に大きな被害をもたらしました。
京都では1978年の民主府政の「落城」に続き、85年には京都市政が自民党を中心とする市政に転落、府・市政をはじめ各地で「オール与党」体制のもと、くらし・福祉・教育の切り捨てと大型開発優先の地方政治がすすめられてきました。
80年代は、国民生活全体に大きな被害をもたらし、日本共産党にとってもきびしい時期でしたが、党は自民党政治にたいする唯一の革新的対決者としてねばりづよくたたかいました。
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1990年代、世界ではソ連・東欧の崩壊、アメリカの1国覇権主義の強まりなど、世界情勢の激変がすすみました。国内では、自民党政治のゆきづまりが新たな段階にはいり、93年には「非自民」と称する政権が誕生しました。しかし、その政権は自民党政治の継承をかかげ、その枠内にすぎませんでした。
政党の離合集散と「オール与党」体制がすすむなか、90年代なかばから、自民党政治の打破を訴える日本共産党への新たな注目と期待が集まり、党は新たな躍進の時期を迎えました。草の根からの住民の運動、党と府民との共同が大きく広がるとともに、「支部が主役」の党活動が前進しました。
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