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京都府委員会の紹介

2部 京都府党60年の歩み(一部改訂)

第三章 第7回党大会と綱領確定による京都府党の前進

隊列ととのえ歴史的安保闘争へ―京都府党組織の前進

 「6全協」の報告をうけた京都府委員会は1955(昭和30)年8月、府委員会総会をひらき、党の統一を回復させる方向を確認した。10月9日、第一回府党協議会(全府細胞代表者会議)がひらかれた。つづいて、11月13日、第二回府党協議会がひらかれ、臨時指導部を選出、地区を2市4地区制に改編することを決定した。書記(委員長)には、井上武夫が選ばれた。

「50年問題」の困難のりこえて

 党の公然活動の発展は、大衆との結びつきを強めたが、党内では、過去の誤りから確信を失い、党から離れるものも生まれ、また、党中央への不信から清算主義、自由・分散主義の傾向も生まれた。こうした困難をのりこえて、年末頃には、地区の再編をおえ、56年1月には、大山郁夫死去にともなう参議院補欠選挙に取り組み、竹中恒三郎が立候補、3万7,171票を獲得した。

 1956(昭31)年4月21、22の両日、第三回府党協議会がひらかれ、50年以降の党活動の総括をおこない、19人の府委員を選出、書記(委員長)に谷口善太郎を選んだ。7月8日の参議院選挙では、地方区に山田幸次をたて、4万9,780票へと伸ばした。56年12月30日、さきに府委員長をつとめた府委員岡本【しゅう】一が死去、翌年1月、党葬がおこなわれた。

 1957(昭32)年1月から「府党報」と「闘争ニュース」(後に「府党ニュース」)が創刊され、党運営の改善がはかられ、2月には、京都市委員会は4地区(東、西、南、北)に分割再編され、6月15、16日には、第9回府党会議をひらき、府委員19人を選出、委員長に井上武夫を選んだ。このとき、党内の思想的弱点を反映して、ニセ「左翼」流の革命論を主張していた大屋史朗が府委員に選出される弱点をのこしていた。

 1958(昭33)年1月、全京都民主団体連絡会議が結成され、党は、田畑磐門を統一候補として京都市長選挙をたたかい、4月の知事選では、蜷川知事への自民党の推薦問題などがあり、党は河田賢治をたてて批判選挙をたたかった。これは、革新自治体のあり方、首長の政治姿勢、それらを支える真の革新与党の対応を示すうえにおいて重要な教訓となった。

 つづいて5月22日、総選挙がおこなわれ、1区谷口善太郎は、3万6,349票と前回より票を伸ばしたが次点で惜敗し、2区の田畑シゲシは9,485票、9位にとどまった。

綱領草案討議で党の団結固める

 第7回党大会を前に、党内で綱領草案をめぐり論議が活発におこなわれたが、そのなかで、反党革命理論があらわれたことは重大であった。府委員大屋史朗は、ニセ「左翼」集団の影響をうけ分派行動も当然として反党の思想と行動を擁護したが、府委員会は7月、警告処分を行い、第7回党大会代議員を失格させた。党大会後、なおトロツキズムに固執し、党の綱領路線に反対しつづけ、決定を実践しない大屋を10月の府委員会総会は、府委員罷免の処分をおこなった。党は、党内に潜入していたニセ「左翼」集団や学生党組織にくり返し発生した「左」右の日和見主義との闘争、民主医療機関関係党員のなかでの経営主義、自由主義、分散主義の傾向との闘争などをへて、府党の政治的、思想的団結を強めた。

 第7回党大会後、10月にひらかれた第11回府党会議は、宮本顕治書記長(当時)も出席してひらかれたが、定刻に成立せず、午後になってやっと開会した問題の党会議となったが、大屋の府委員罷免を承認し、党活動強化資金カンパの拠出など、党活動の強化、民主集中制の組織原則にのっとった党建設の方針などその後の京都府党の前進にとって重要な決定をおこない、25人の府委員を選出し、委員長に河田賢治を選んだ。

大衆闘争の発展に積極的な役割

 党の強化にともない大衆闘争の取り組みも前進し、58年、勤評反対京都共闘会議、京都勤労者文化会議、警職法改悪反対国民会議の結成などがすすみ、59年には、第一回の働く婦人の京都集会もひらかれた。安保闘争は、このような取り組みのなかで準備され、中央での安保条約改定阻止国民会議の結成につづいて、5月、京都での共闘会議(平和と民主主義を守る京都共闘会議)が結成された。

 59年4月の府市会選挙では、府会4人、京都市会は5人から8人に前進し、6月の参議院選挙で河田賢治は5万256票を獲得し、全国区の須藤五郎は約5,000票の得票増加をかちとった。

 59年8月、6中総は、数10万の大衆的前衛党建設をめざす画期的な党勢倍加運動を提起して、直面する安保闘争、労働運動の高まりのなかで大衆闘争と独自の党建設の課題を2本足で追求することを決定した。10月、第12回府党会議がひらかれて、体制を強化した。同月ひらかれた京都総評大会では、統一派が役員に進出し京教組の糸井一が議長となり、安保闘争の指導に重要な役割を果たした。

綱領確定と60年代のたたかい―現実政治に大きく進出

すべての地区で党員の倍加を実現

 1960(昭和35)年の新安保条約に反対する闘争は、平民共闘のもとに広範な労働者、市民が結集し、巨大なエネルギーを発揮した。党はそのなかで献身的に奮闘し、党への信頼を高めた。5月8日、京都での第一回「アカハタまつり」が取り組まれた。8月、党勢拡大と総選挙めざす全国活動者会議をうけて、府委員会総会は党勢拡大の重大な立ち遅れを自己批判し、12月、ついに党員倍加を達成した。安保反対の統一行動のなかで、党は積極的な役割を果たし、これが独自の党勢拡大へと結実したのである。9月、府委員会は事務所を延寿寺から今日の府庁前へと移した。11月、総選挙がおこなわれ、1区では谷口善太郎が4万8,328票、得票率を前回の9.6%から13.3%にのばして当選し、米軍による追放で奪われていた議席の一つを9年ぶりに取り戻した。自民党の議席は3つから2つに減った。2区では、田畑シゲシが2万2,021票、得票率を前回の2.3%から5.2%に倍加し、次点へせまる躍進をかちとった。この選挙では、大衆的な支持拡大の票よみ活動、後援会活動などで選挙活動の内容は大きく前進した。

 1961(昭和36)年3月、第13回府党会議がひらかれ、60年安保闘争と党勢倍加運動の総括にたって、さらに党勢を拡大し、京都の大衆運動を指導し、現実政治に責任をもつ大衆的前衛党を建設するための方針を決定した。そして、同年4月、京都の地方政治新聞として「京都民報」を創刊、党は現実政治の舞台に大きく進出した。

 こうしたなかで、61年7月、府党は、全地区が党員倍加を達成し、中丹、丹後地区は4倍化、口丹、西地区は3倍化、府全体で2.5倍化を達成して、第8回党大会を迎えた。しかし、全党の奮闘と前進にもかかわらず、党内の一部には、反独占社会主義革命論などに固執するものが残っており、第8回党大会の代議員に選ばれたものもいた。そのなかには、第8回党大会で全員一致、綱領が確定された直後から反党活動をおこなったものもいた。府党組織はこのような反党分子を除名し、追放した。この影響で京都総評や京都府学連のなかの統一戦線支持勢力は一時後退した。

 60年安保闘争後のケネディ・ライシャワー路線による反共分裂攻撃のもとで、労働組合運動に右傾化が強まり、この面における党の活動を一層きびしいものにした。1963(昭和38)年8月の原水禁世界大会では、ソ連共産党の大国主義的干渉とも関連して、社会党、総評の不参加で分裂、このあと、対ソ連盲従の志賀分派が生まれた。10月の地評大会は路線上の対立で休会、12月の再開大会は8単産入場拒否で流会、さらに、翌64年4月に4.17スト問題が起こり、5月には、社会党、地評らが京都原水禁をつくり、運動を困難にしたが、党は精力的に奮闘し、8月に京都でひらかれた第十回原水禁世界大会を大きく成功させ、同年10月、地評大会では統一を回復させた。

綱領路線に確信もち支持広げる

 第8回党大会で、日本の進路、人民の闘争の方向を正確にさし示した科学的な綱領を決定し、政治的、理論的、組織的統一をかちとった党は、国政選挙で大きな前進をはじめた。62年の参議院選では、全国で3人が当選し(全国区2、東京地方区1)、京都地方区で河田賢治は9万1,581票へと得票を大きく伸ばした。そして63年11月の総選挙では、1区谷口善太郎が6万4,060票(得票率16.6%)の最高点で当選し、2区田畑シゲシは4万5,364票(得票率10.69%)で再び前回票を約倍加させて次点に進出した。さらに、65年7月の参議院選で、地方区の河田賢治は、14万9,706票(得票率20.7%)を獲得し、初めて10万票台、得票率で2割台に達し、地方区で議席獲得の展望を切りひらいた。さらに67年1月の総選挙では、1区谷口が6万7,822票(得票率15.68%)で当選し、2区田畑シゲシは、6万3,438票(得票率13.18%)を獲得し、最下位当選者に肉薄するまでに前進、2区でも議席獲得の確信を与えた。

 また、このような前進は、地方選挙でも示された。63年4月の府市会選挙では、府会6人、市会8人、65年5月の北区府議補選で関矢昭が最高点で当選し、同年8月の上京市議補選で若宮修が最高点当選をなしとげ、党内外に党の政治路線の正しさにたいする確信をいっそう強めた。そして、67年4月のいっせい地方選挙では、府会7人、京都市会12人へと大きく躍進した。

 革新自治体をめぐるたたかいでは、蜷川3選以後、党は協力関係を回復、共闘の強化につとめた。京都市長選では、62年には加賀田進で統一したが、66年には、社会党がセクト的方針によって岡本清一に固執したため統一が実現せず、党は府副委員長安井真造を真の革新候補としてたててたたかった。直後の知事選では、自民党が、初めて民社党をだきこみ、前京都府農林部長の浜田正をたてて、大物量作戦で挑戦した。党は、府職、教組、自治労、府医師会、保険医協会など民主勢力の統一をよびかけ、告示2日前に、共産党、社会党、民社党党員会議の3者で協定し、民主府政推進協議会が結成され、蜷川5選を果たした。翌67年1月、井上市長が急死すると市民のなかからは統一を望む声が高まり、共社両党を中心に全京都市民会議が結成され、統一候補富井清(府医師会長)が、反共市民同盟を名のる自民、民社の反動候補八杉正文(京都市交通局長)を破って当選し、16年目にふたたび革新市政を取りもどした。

 1964(昭和39)年8月、アメリカ帝国主義によるベトナム侵略拡大のなかで、党は平和運動をつよめ、65年7月、2年ぶりに共闘が成立し、ベトナム侵略に抗議する決起集会が円山でひらかれた。66年10月21日には、大規模な全国的統一行動も展開された。以来、国際統一行動としてたたかわれるようになった。当時、中国共産党による大国主義的干渉がわが党と日本の民主勢力に開始され、これに呼応する盲従分子が生まれ、民主運動の障害物となった。

各層各分野の大衆組織を強める

 党は、この間、民青同盟、新婦人、民商などの各階層の基本的大衆組織が、青年人口、婦人有権者、業者内でそれぞれ高い組織水準に達するよう一貫して援助した。その結果、着実な前進をかちとり、今日でも各戦線での大きな役割を果たしている。地域青年団の連合体である府連青は一貫して統一戦線の立場にたち、また母親運動は、幅広い婦人組織を結集して前進した。

 65年、部落解放運動に朝田一派による不当な攻撃が加えられ、幹部の不当な除名と解放同盟の分裂が強行された。また翌66年には文化厚生会館の不法占拠をはじめ労組や大学での「部落差別糾弾」の名による暴力事件がひきおこされた。党は、朝田一派の部落排外主義、反共分裂主義をきびしく批判、公正・民主の同和行政のために、のちに正常化連、全国部落解放運動連合会のもとに結集した人々とともに積極的に奮闘した。

現実政治を動かす強大な党へ―革新統一の旗かかげて

参院地方区でついに議席獲得

 60年代のたたかいの前進にとって重要であったのは、正確な綱領路線の決定のもとに大衆活動を正しくすすめ、独自に党勢拡大をすすめるとりくみであった。

 党員倍加運動の成功のもとに、1963年、幹部会の「日曜版拡大特別月間」の訴えに呼応して、府党組織は、7月に日曜版目標を達成し、京都は、総合成績全国第一位、日曜版有権者比第一位、日曜版集金成績第二位、日曜版拡大成績第三位の成績をおさめ、赤旗日刊紙、日曜版ともに、有権者比全国一の位置に前進した。党創立40周年記念の長編記録映画「日本の夜明け」の上映は、全府下で4万人の参加をかちとり、党内外の思想建設のうえに大きな役割を果たした。

 民主府・市政の実現で現実政治に責任ある与党の立場に前進した党は、さらに現実政治を動かす強力な党へ躍進することが求められた。「日本の夜明けは京都から」のスローガンがこのなかから提起された。

 1968(昭和43)年5月の南区府議補選で、本野哲郎が1位で当選したことは、同年7月の参院選の前哨戦として京都地方区で党が勝利するうえで重要な意義をもった。この参議院選挙で、河田賢治は、24万8,103票、得票率27.55%を獲得して当選し、京都地方区で初めて議席をかちとった。新宮津火力発電所設置反対運動の中心地であった伊根町では、45.3%の高い支持を得た。また、この選挙で党は、経営におけるたたかいを重視し、政党支持・政治活動の自由を保障し、共産党と労働組合との協力・共同の関係を強めるため奮闘した。その結果、わが党と協力共同の関係をもった労働組合は社会党1党支持の組合より、組合数、組合員数ともに上まわり、さらに農漁民、商工業者、宗教者、文化人など広範な人々との協力関係が広がり、その後の前進の貴重な土台をきずいた。

 府党は、このたたかいの教訓から、どんな情勢でも前進していく力として、職場に強大な党を建設していくため「職場に党員3割、日刊紙5割、日曜版8割を組織する」という「3.5・8」の目標を提起し、10、11月の「党勢拡大月間」では、期限内に、10回大会比、日刊紙130%、日曜版140%の目標を達成した。また、郡部地区の党建設面での遅れを克服するため、長野県党組織に見学団をおくり、先進的な農村県での活動を学びとるなどの新しい努力などもおこなった。69年7月の党勢拡大の月間中に、中丹地区は、日曜版の対有権者比で京都市内地区を抜いて府下第一位へと前進した。なおこの年の4月1日より、京都市内では、全居住地で読者を把握する新しい配達、集金体制が実施された。

衆議院1、2区ともトップ当選

 議席を奪還し、河田賢治を再び国会へおくりだした府党は、1969(昭和44)年3月、第23回府党会議をひらき、参議院選の教訓の上にたって、次の総選挙での躍進をめざし、選挙準備と党勢拡大推進などの諸方針を決定、新しい府委員会を選出、委員長に安井真造を選んだ。

 この年、70年の安保自動延長や沖縄返還協定をめぐって、4.28、6.23の統一行動では円山集会にそれぞれ8,000人が結集するなど大衆運動が大きく盛り上がった。

 また68年暮れから大学闘争が激しくたたかわれるようになっていた。

 党は、大量宣伝と数次の統一行動を組織するなかで、ニセ「左翼」暴力集団の共産主義を偽装した特殊な反共暴力集団としての本質と反動的大学管理を狙う政府の意図を暴露してたたかった。

 府党は、1963年6月の府委員会事務所建設3カ年計画にもとづいて、65年12月に、第二事務所を建設していたが、69年10月、総選挙と70年知事選を前にして、府庁前に5階建ての新しい府委員会事務所を完成させた。


70年知事選挙で蜷川知事が圧勝

 69年12月の総選挙では、1区谷口善太郎が8万6,859票、得票率21.5%で1位当選、2区では病気の田畑シゲシに代わって立候補した寺前巌が11万1,650票、得票率19.85%で1位当選、1、2区ともに最高点で勝利する輝かしい記録をうちたてた。ニセ「左翼」暴力集団を擁護していた社会党候補は、1区で1人にしぼったにもかかわらず落選、社会党は、京都で約8万5,000票の得票を激減させた。2区における党の議席は、米占領軍に不当に奪われてから実に18年ぶりの奪還であった。

2005年8月19日掲載
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