JCP京都
にながわ とらぞう

蜷川 虎三〈墓〉(1897〜1981)

所在他=京都市東山区東大路通七条下ル
総本山 智積院ちしゃくいん墓地

 蜷川の墓碑は、仲良く並んでいる二人の妻、律子と多津の墓碑に挟まれて81年4月26日建てられた。石は青味がかった四国小豆島の庵治あじ石と呼ばれる花崗岩で、幅1. 3メートル、高さ0. 95メートル、厚さ0. 21メートル。

 墓碑の表の文字は一人娘の宮井思葦子が書いた。裏には、蜷川の生年月日と逝去の日「1897. 2. 24−1981. 2. 27」のみが刻みこまれている。

 81年2月28日、全国に悲報が駆けぬけた。50年から28年間、京都の革新知事として民衆に慕われた蜷川の死であった。

 東京都出身、京都大学経済学部長ののち、初代中小企業庁長官となる。50年に全京都民主戦線統一会議推薦、社会党公認で京都府知事に当選。以来、地方自治の確立、憲法擁護の強い信念と施策は永年にわたり、京都の自然環境や中小企業、伝統産業を守ってきた。「とる漁業から育てる漁業へ」「京都食管」「ろばた懇談会」など数多くの優れた施策を実施。府庁の「憲法を暮らしの中に生かそう」の垂れ幕はその後、革新自治体のシンボルとなった。「十五の春は泣かせない」「川は暮らしの中を流れる」などの名言は今も民衆の心に強く生きる。

 「峠のむこうに春があると歩きつづける」と詠んだ虎さんも84才の生涯を終えた。

※東山七条から徒歩約10分