やまもと せんじ
山本 宣治〈墓〉(1889〜1929)
所在他=宇治市
山宣の墓碑は当初ねかされたまま、結局、裏面の碑文をセメントで塗りつぶし、表面を宣治と両親の名を出さず、「山本家之墓」と訂正することで、やっと建立が許可された。その後、何回かセメントがはがされては塗りつぶされたが、45年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、かつての農民組合の同志がノミをとって墓石のセメントをはがし、墓碑は白日のもとによみがえった。
宇治の「花やしき」には山宣資料室がある。
新京極で生まれクリスチャンの両親のもとで洗礼を受ける。両親は病弱な山宣のために宇治に家(後の花やしき)を建てた。
カナダ留学後、旧三高、東大へと進み同志社大学で教鞭をとる。性科学の講義は有名。産児制限運動の中で高倉テルらと知り合う。24年創立の京都労働学校で初代校長に推され就任。相次ぐ闘争で京大・同志壮大を追われ、農民組合に入り小作争議を指導する。
28年、第一回普通選挙で地下の共産党から要請され労農党から立候補、当選。「山宣ひとり……」との有名な最後の演説をした翌3月5日、議会で治安維持法改悪反対の意見をのべようとして妨害され、果たせないまま、その夜神田の宿舎・光栄館で右翼の凶刃に襲われ壮絶な死を遂げた。享年40才。葬儀も弾圧され、墓の建立も妨害された。日本共産党はその生前の功績をたたえ、党籍を贈った。
※JR宇治駅 京阪宇治駅より歩いて約20分