① 真下飛泉(ましもひせん)1878〜1926
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碑は飛泉の故郷・大江町関と京都市東山区・知恩院境内の良正院門前にあります
「ここはお国を何百里」――石碑に刻まれているのは『戦友』という歌の出だしの一節です。年輩の方ならよくご存じですが、歌詞はこう続きます。
離れてとほき満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
この詞を読むと、生前よく歌っていた父の声までが蘇ってきます。父は独身時代と結婚後の二度にわたって徴兵され、陸軍歩兵として中国大陸、朝鮮半島を転戦したそうです。戦地でのようすは詳しく語りませんでしたが、好きなぜんざいが食べられたときのこと、母から届く手紙のことなど、うれしかった時の話はよくしてくれました。歌は決まって『戦友』でした。瞑目しながら歌い終わると、必ず「これはわしの体験」「これが戦地や」とつぶやくように言いました。
軍律きびしい中なれど
是が見捨てて置かれうか
「しっかりせよ」と抱起こし
仮繃帯も弾丸(たま)の中
戦すんで日が暮れて
さがしにもどる心では
どうぞ生きてゐて呉れよ
物など言へと願うたに
戦時中は戦意高揚を図る勇まし軍歌は多くありましたが、『戦友』だけは少し違いました。隣で戦っていた友の死を悼む哀切に満ちた旋律が心に染み入るようです。
作詞者は、京都府加佐郡河守の貧しい農家に生まれた真下瀧吉(ペンネーム・飛泉)。
京都師範(京都教育大)付属小訓導のころ、文学活動を通じて与謝野鉄幹に師事し、明星派歌人として、時代に抗した反骨の教師でした。
『戦友』は、戦地に行った義兄が涙ながらに語る満州の様子を聞いて書いたもので、飛泉は軍歌ではなく、いのちの尊厳を歌った叙事唱歌として学校の教材にもし、巷でも大ヒット。一世を風靡しましたが、先の大戦中は、厭戦気分を煽るとの理由で歌うことを禁止されたこともありました。
飛泉の青年時代を、『歌え わが明星の歌』と題して、作家・前田愛子さん(八幡市在住)が京都民報に連載。本が「かもがわ出版」から出ています。
碑は飛泉の故郷・大江町関と京都市東山区・知恩院境内の良正院門前にあります(ときこ)。
2005年6月7日掲載