⑨種田山頭火(たねださんとうか)1882〜1940
編笠とくたびれた法衣に身を包み、飄々と歩く雲水姿の山頭火を、ご存じの方は多いのでは。何ものにも束縛されず、足の向くまま、気の向くままに歩いた山頭火は、その時々の心象風景を、自由律の俳句に詠みました。
分け入っても分け入っても青い山
(京都市東山区・即成寺)
春風の扉ひらけば南無阿弥陀佛
(宇治市塔の川・「対鳳庵」近く)
花いばらこゝの土にならうよ
(宇治市槇島町・「皆演寺」境内)
この山頭火に心動かされ、絵画に残した画家がいます。日本画壇を代表する一人、池田遥邨(いけだ ようそん 1895〜1988)。
遥邨は、その晩年、山頭火の句境の絵画表現に手がけ、詩画一体の〈山頭火シリーズ〉に挑みました。そこには生涯を漂白の旅人として、各地を放浪した山頭火の姿があります。自然を愛し、旅に憧れ、若い頃に三度にわたって東海道五十三次を旅した遥邨は、山頭火の句の中から、好きな句を何枚も書き出して画室に張り、「これらを描き終えるまでには125歳まで長生きしなければ」と語っていたそうです。
でも、私の浅い鑑賞歴で知る限り、絵に描かれた山頭火は、目をこらさないとわからないほど小さく、圧倒されるほど美しい四季に溶け込むように歩いています。
その中で、私が最も惹かれる作品があります。それには山頭火の姿はなく、緑が生い茂る野原に、笠と法衣だけが置き忘れたかのように描かれ、「行き暮れてなんとここらの水のうまさは」の句が。ただひたすら孤独に歩きつづけた山頭火が、両手にすくった水にのどを潤し、しみじみ“いのち”を愛おしんだようすを想像します。
大地主の家(山口県防府市)に生まれ、十一歳の時に母が自殺、父は放蕩三昧。散々な子ども時代を過ごしながら、自身も大学時代から酒に溺れ、結婚後も生活が定まらず、とうとう出家。四十三歳で妻子を捨て、世間も捨て、当てのない旅に出た山頭火は、いったい何を求め、何処へ向かって歩いたのでしょう。その山頭火を、どこまでも美しい日本の原風景の中に描いた遙邨。
〈山頭火シリーズ〉を見ていると、遥邨と山頭火に、日々の暮らしの中で失われ、忘れられつつあるものに心揺さぶられ、さまざまな思にかき立てられます。(ときこ)
2005年11月11日掲載