JCP京都

⑧高浜虚子(たかはま きょし)1874〜1959


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智積院にある碑。


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知恩院にある碑。

ひらひらとつくもをぬひて落花かな

 高浜虚子は85歳で没しましたが、その生涯に20万句を超える膨大な俳句を残したと言われます。

 その作品集の中に、『虚子京遊句録』というのがあるように、京都を詠んだものも実にたくさんあります。先の句も、1930年〔昭和5〕4月、フランスに留学中だった次男・友次郎(音楽家)を迎えるために神戸へ向かう途中、京都で数日間を過ごし、智積院に参拝した折りに詠んだものです。

 虚子が京都に暮らしたのは、19歳で郷里の松山を離れ、京都第三高等中学校(京都大学)に入学してから、中退するまでのわずか2年間でした。

 はじめての京都の印象を、虚子は「自伝」の中で、こんなふうに回想しています。

 「目の前に開けた京都の天地は美しうございました。山や川のたゝずまひは、それ程郷里の松山と隔りがあるとは思ひませんでしたが、碁盤目のやうに正しく敷かれた町、飾り立てられた店、電燈の光で磨きたてたやうに光つてゐる広場等は際立つて美しく目に映りました。初めてくゞつた校門も立派でありました」(「虚子自伝」)。

 学制の変更で仙台の第二高等学校に転校を余儀なくされ、盟友の河東碧悟桐とともに一度は仙台に行きましたが、三カ月で退学。東京に住む俳句の師・正岡子規のもとで俳人としての本格的な道を歩みはじめました。

『ホトトギス』表紙

現在も発行されている
『ホトトギス』

 再び京都で暮らすことはありませんでしたが、主宰する俳句誌『ホトトギス』に「…されば京都は第二の故郷というふ感じがして、今でも年に一度か二度は此地を訪はないことはない…」。また「京都といふ土地は山紫水明の境であつて、花の山々紅葉の谿々等、天然の風光の俳句の題材となるべきものが濃厚に潤沢にある…」などとと記しています。それほど京都は、虚子の文学活動や人生に多大な影響を与えました。

 京都は秋本番。秋を詠んだ句を、ほんの少し選んでみました

宇治川の舟に泛べば薄紅葉

大原女に心残すも紅葉かな

笹の葉にかゝりて赤し散紅葉

散紅葉こゝも掃きゐる二尊院

二日来て紅葉やゝ濃し嵐山

 虚子を含めて多くの文人・画家が心揺さぶられた京都は、いま、虚子たちにはどのように写るのでしょうか。(ときこ)

〈注〉虚子が、師の正岡子規から引き継いだ「ホトトギス」は、創刊(1897年、明治30)以来、現在も活動が続く、俳壇の世界では最古の俳句雑誌。最新号は1307号(2005年11月)。

2005年10月26日掲載