⑦臼井喜之介(うすいきのすけ)1913〜1974
花を惜しむこころは
いったい何なのだらう
いくつ齢をかさねたら
心はしづまり
ひとり酒汲む静寂に
住むことができるのか
今日も嵯峨御所から
花信が舞ひこんできた
嵯峨・大沢の池の東畔に建つ詩人・喜之介の歌碑は1976年4月11日に建立されました。一字一字、刻まれた文字の力強い筆致は、大覚寺住職・味岡良戒師の筆によるもので、見惚れるうちに、いつしか喜之介の詩の世界に引き込まれていくようです。
時は春爛漫、古来より観月の名所と知られ、平安貴族が舟遊びをしたという大沢の池は、今も桜の名所の一つ。池面に背後の緩やかな曲線を描いた山の緑を写し、風に舞う桜の花びらの中に静かに佇まう風情は、まさに一巻の絵巻物をひもとくようです。 “嵯峨御所”は、この箱庭のような風景の中に建つ大覚寺のことで、もともと平安時代に嵯峨天皇の離宮として建造された門跡寺院で、数多くの文化財を所蔵。花の寺としても知られ、春は桜、秋は嵯峨菊、山茶花などの花の便りが人々を誘います。
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撮影中にネコが碑の上に
飛び乗り気持ちよさそう
…守り神かな?
歌碑に印された詩は、この風景を歌ったものでしょう。
喜之介も著書『風物詩 京都文学散歩』(展望車社刊)の中に、大覚寺や大沢の池周辺のことは詳しく紹介しています。
「……池畔一帯に桜が植えられており、松や楓に交じって、美しい景観を見せている(中略)。一瓢たずさえて、清閑をたのしむのは、休日でない日を選ぶがよい。この辺りは、さすがに歴史的な物語は豊富で、一木一草も由緒ありげである」
喜之介は生粋の京男。京都の風流を心底愛し、生涯、仕事や生活に見事に体現しました。親交の厚かった歌人であり、小説家の吉井勇は(1886〜1960)は、「私が土佐から京都に移り住むようになって、喜之介君との出会いがなければ、これほどまで京都に影響されなかっただらうと思ふ」と振り返っています。
『月刊京都』(白川書院)という雑誌をご存知でしょう。創刊は1950年。55年の長い歴史をもつこの雑誌の創刊者が喜之介です。
かねてから京都らしい特色のある本を出したいと願っていた喜之介は、京都大学の北門前で「臼井書房」を経営。自身の詩集や随筆集を出版していましたが、夢はさらに広がり、有力者などの協力を得て白川書院を創設、『月刊京都』の編集にこぎつけました。以来、京都の名刹・史跡・伝統工芸・美術・伝統芸能や行事など、多方面から「古くて新しい町」京都の魅力を全国に発信しつづけています。
「京都は御自分の庭園のように隅々まで御眼鏡の中にあったといっても過言ではなかった。かてて加えて豊かな詩趣と情味をもって…」と評された喜之介に、京都の「格式」「伝統」とは何か、目を覆うばかりの京都の変ぼうぶりをどう語るか、聞いてみたい気がします。(ときこ)
2005年8月8日掲載