⑤奥田雀草(おくだじゃくそう)1899〜1988
大慈悲に
抱かれて
旅の
花衣
奥田雀草
俳画家・奥田雀草を、誰もが「雀草さん」と呼び親しんでいました。
ひげを蓄えた口元とメガネ越しの目は、いつも柔和に微笑んでいました。人を見る時、ひょいとメガネを額の上に引き上げ、顔を近づけるようにして、「お元気でしたか?」と確かめる。そんな親しみ深さとともに、小柄で飄々とした風貌にピッタリの俳画の数々は多くの人びとに愛されました。
ふるさと はながさく
ちちである ははである
戦前から秋田雨雀など、文化人との親交が厚かった雀草さんの何よりの功績は、32歳で出身地・兵庫県に須磨俳句学校を創設。戦後、俳誌「高原」を主宰し、形式主義に陥りがちだった俳句を現代語表現で再生することに努力し、俳句を誰にもなじみやすいものにしたことです。
赤い袋背なにお地蔵さんと 笑いの顔一つ
ほほえましく思わず笑いに誘われるものもあります。こんな雀草さんの独特の作風を、日本画家の小野竹喬さんは「長い俳句道の蓄積が俳画にもおのずとにじみ出て、人をほほえましくするものがある」と評しました。
雀草さんは、また、平和を愛しました。
音、軍靴の音だ
一つしかない生命をしっかりと抱く
多くの友や弟子を戦争で亡くした雀草さんの、戦後活動を支えたのは「憲法」でした。同じく暮らしに憲法を貫いた故・蜷川虎三京都府知事と意気投合。虎三知事は俳句を雀草さんに師事しました。
憲法の日 やせて雀草たぎってる
虎三
核廃絶を願って毎年ひらいている「原爆忌全国俳句大会」は、この二人の発案によるものです。ちなみに昨年、第38回の大会賞受賞作品は「抱くように子の墓洗う原爆忌」(高谷志ず子・京都府)でした。
4年前、住み慣れた京都を離れ東京で暮す、妻の奥田雅子さん(94歳)も、雀草さんを俳句の師として仰いだだけでなく、「俳句を通してあらゆる不正義と挑戦しつづけた生き方が偉いと思うの」と言います。遍照寺に雀草さんの句碑を立てたのも「雀草さんの人間性を昇華させたかった」から。
句碑が立った日、広沢の池周辺の桜は散り始めていましたが、句碑の前には雀草さんを愛した人たちが大勢集い、「平和を誓う」自作の句を献納しました。寺の住職の奥さんは「心のこもた温かな集いで、何度も胸が熱くなりました」と振り返ります。
「雀草は、今でも天国できっと言い続けていると思いますよ。『もっともっと怒りなさい』と」。
電話を通して聞こえる94歳の声は、雀草さんの遺志を今も胸に刻んで、はっきりと澄んでいました。(ときこ)
2005年7月7日掲載