④濱田陽子(はまだようこ)1919〜1992
峠路はやすらぎに似て風吹けり
石も木草もなべてかがやく
陽子
京都市伏見区に在住した歌人です。歴史上の人物は、たいがい名前を呼び捨てにしますが、「濱田陽子」さんは、その生前を知っている私にはとても身近な存在で、いまだに胸の奥深く生きつづけており、到底、呼び捨てでは語れません。
と言うのも、私がかつて「京都民報」記者をしていた頃、「読者文芸」欄〈短歌〉部門の選者として大変、お世話になったのです。原稿の受け渡しに度々、伏見区桃山町の通称“正宗坂”にあったご自宅に伺いました。「濱田先生」「陽子先生」と親しくさせていただき、亡くなられる直前まで、病院へ何度もお見舞いをしました。
松村茂さん(京都民報社会長)に連れられ、初めてご自宅に伺ったときから、物静かでやさしい風貌に漂う、どこかキリリッとした姿――どんな出来事にも決して媚びへつらわない真の強さとでもいうか、凛とした姿に惹かれました。
濱田さんの生き様は、歌を通して結ばれた夫・引野収さんとともに、まさに凄絶でした。教職にあった引野さんは、結婚して3年後に結核性脊椎カリエスを患い、70歳で亡くなるまで、40年間の長きに渡って病臥にありました。その間、心臓発作や心不全の発作を繰り返し、生死を行き来した引野さんは、病床でかざす小さな手鏡に四季を写し、冴えた目で社会を見つめ、歌を詠み、“昭和の子規”と呼ばれました。
手鏡は身に添うわれの小世界八手小花のさきおわりたり
収
食と医薬に衣類もすでに売り尽きぬ夜ふかくしばし泪する妻
収
濱田さんは、「一呼吸でも運命に打ち克つために頑張りつづけた」夫の傍を片時も離れず、ともに歌いつづけました。
手鏡に見つめられつつ歌ありきなべて虚像のなかの真実
陽子
死にゆくは昏迷にして明るしといさぎよきまで貧の一日(ひとひ)は
陽子
「まるで雨露を凌ぐだけの仮小屋のような」小さな住まいが、2人の暮らしぶりを物語っていました。それでも庭に四季の草花は絶えることなく、訪問者を心豊かに迎えてくれました。常に「足る」を知る気高い暮らしぶりが伺えました。
庭に面した夫の枕辺で、雑誌の編集や原稿書きをしていた濱田さん。2人は最後まで短歌グループを主宰し、雑誌『短歌世代』を350号も発行しつづけました。
どんな時も2人は生命(いのち)への賛歌、人間への愛を歌に貫きました。福祉が壊され、日本の未来が危うくなろうとしている今、2人の歌は時代を超えて私たちの胸を揺さぶります。
祖国とはかつても今も何なりし人を殺せとまたそそのかす
収
真実は恒にわれらに茫茫たり〈戦争の愚かさ〉ひとつ知れれど
陽子
炎風にわれは叛旗をかかげおり生きて生きて生ききるのみぞ
収
堂にあふるる反戦のこゑ胸熱く抱きて風の道をかへらむ
陽子
劇団京芸が、今年4月「歌人 引野収と濱田陽子の生涯」を朗読劇で好演。2人の歌人に新たな光をあて魅了しました。(ときこ)
2005年6月29日掲載