⑪与謝蕪村(よさ ぶそん)1716〜1783
初冬や日和になりし京はづれ
いざ雪見容す蓑と笠
冬鶯むかし王維が垣根かな
与謝蕪村の墓所である金福寺(左京区)の境内に、「蕪村が当季によめる句」として、冬の句がいくつか掛かっています。
蕪村は天明3年12月25日未明、下京区仏光寺烏丸西入ルの居宅で68歳の生涯を閉じました。
昨年、師走、蕪村の命日の前日にあたる24日、島原ので蕪村追慕の画期的な句会がひらかれました。というのもこの句会を計画したのは、全国各地でみずからが結社や俳句誌を主宰する指導的立場にあるの俳人たち(14人)で、互いの枠を超えて一堂に会したものであったこと。会場となった島原は、江戸の吉原、大阪の新町に並ぶ三大花街の一つで、太夫や芸妓は琴や三味線などの芸事はもとより、和歌や俳句などもたしなみとして重んじられた格式のある花街で、町内あげて句会活動が盛んだった地域です。
なかでも揚屋を営む角屋は、蕪村をはじめ円山応挙や池大雅など、当時の俳人、文人、画家などの社交場でもありました。角屋は6代目、7代目の当主自身が俳諧に熱心で、自宅でたびたび句会をひらく風雅人で、蕪村なども招かれた由緒ある所。
今も、当時のたたずまいをそのまま残す角屋(国指定重要文化財)で、蕪村も眺めたであろう名園を眺めながら、200年余の時空を越えて催された句会は、さぞかし蕪村の時代に思いを馳せるにふさわしいものだったことでしょう。
蕪村は松尾芭蕉、小林一茶とともに俳諧史に名をとどめただけでなく、南画の創始者としても数多くの名画を残し、俳諧・絵画の両道に才能を発揮したまれな人物でした。
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蕪村作「芭蕉翁画」(金福寺)
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与謝蕪村(金福寺より)
京都はその蕪村とのゆかりは深く、府下各地に蕪村の足跡を見ることができます。蕪村は宝暦4年(1754)、母・げんが生まれた(与謝郡加悦町)丹後で3年ほど絵画の制作に励みました。
首くくる縄切れもなし年も暮れ
この句は、当時の蕪村の貧乏暮らしを物語る一作で、家の入り口にかけたこの句に借金取りもあきれ果てて帰ったというエピソードが伝えられています。蕪村はその後、旅に出ましたが、晩年はふたたび京都に戻り、終焉を迎えました。
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
蕪村が臨終の床で詠んだ最後の一句です。
…「死ぬべきがきたように思うが、まだ夜はあけていないのか」
と問うて暁の中に梅花を求めるのか唇を動かし、それはやがて称名念仏の声と変った…(「京都民報」連載「小説『与謝蕪村』より、1994年」)
著者は、多くの歌人の伝記などを書いた京都在住の作家・田中阿里子さんでした。(ときこ)
2006年1月11日掲載